2017年6月10日土曜日

剣山

四国で2番目に高い剣山(1955M)。1番高いのは石鎚山で、1982m。
高さは、わずか30mに満たない違いだが、山頂の姿は、全く異なる。
剣山の山頂は、クマザサが茂った、百合丘陵状で、面積的にもかなり広い。
山頂からは、付近の山に通じる縦走路が、あちらこちらに出ている。




登りは、リフトを使えばかなり楽である。今回は、リフト沿いに、シャクナゲがきれいに咲いていた。
下の見の越駅が標高1,420m、上の西嶋駅が標高1,750m。自動車やバスは、見の越駅まで行けるので、西嶋駅から歩けば、標高差は200m、ゆっくり歩いて約1時間程度。
登山道の所々に大きな岩がある。登山道は、比較的よく整備されているが、小さな石ころ上の岩が多いので、スニーカーだと歩きにくいだろう。

今回は行く時間がなかったが、修験道の行場になったいたところがあり、そこでは大きな岩がたくさん露出しているようだ。

最寄りの美馬インターチェンジから、かなり狭い所が残っている国道を40km以上行かなければいけないのが、少しつらいところである。

2017年5月

経ヶ森

経ヶ森は、88カ所の第52番札所太山寺の奥の院とでも言うところ。
昔、真野長者が沖合にさしかかったとき、経ヶ森の山頂から差した五色の光によって難破を免れたという。長者は、そのお礼に、一夜のうちに太山寺の本堂を建立したと伝わる。
なお、「経が森」の名は、聖武天皇が自ら写した金光明経と法華経の写経を、山頂に埋めたという伝承に基づく。

太山寺本堂の左手、階段を上がったところにある大師堂から、さらに右手にある身代わり観音の裏から登山道に入れる。
登山口から経ヶ森までは、約20分程度。

登山した5月には、すでにかなり草が茂っているが、道も明確に分かり、歩くのには支障がない。ただ、真夏になると、管理をどれくらいするかによるが、かなり草が茂ってくるとと思われる。

山頂には、観音像が建っているが、その周囲には、かなり草が茂っている。本来なら、360度の展望が得られるところだろうが、2017年5月時点では、周りの樹木が大きくなって、ほとんど展望は得られない。


帰り道は、梅津寺に降りたが、道は良く整備されている。最後の所では、天理教の敷地内を通るが、全く問題はない。
そのほか、松山観光港に降りるコースと、高浜港に降りるコースがあるようだ。

2017年5月

2013年10月6日日曜日

加藤 拓川

松山大学には、創設三恩人と言われる人たちがいます。新田長次郎(温山)、加藤恒忠(拓川)、 加藤彰廉(あきかど)の3人です。このうち加藤恒忠(拓川)が、明教館の出身です。
 
 
 
 拓川は東高が出した小冊子「いのちまた燃えたり」にも載っていますが、そこには、少年時代に没落武士家庭で貧しかったエピソードが、長々と書かれているだけ。 
 というのも、拓川は不思議な人で、彼自身にこれと言って大きな功績があるわけではない。
しかし、彼と関わった人は、大きな功績を残しており、彼なくして、明治における松山人の大活躍はなかったかも知れない。

★まず子規。拓川は、子規の母八重の弟。子規にとって叔父にあたる。子規は明治16年に上京。この時拓川は、旧藩主久松定謨(さだこと)に随行して渡仏が決まっていたので、子規を、親友の陸羯南に託します。子規は、陸羯南と知り合ったことで、東大退学後も生活の安定と、俳句革新運動の舞台を得ることができた。なお、子規亡き後の正岡家は、妹の律が、拓川の三男を養子にもらって継いでいます。詳しくは「ひとびとの跫音」(司馬遼太郎)に。

★秋山好古。拓川は久松定謨(さだこと)に随行して渡仏しますが、明治19年には、後に総理大臣となる原敬の推挙で、フランス在住のまま外交官試補になります。そこで、定謨の補導役としての後任に選んだのが好古。好古は、フランスで騎兵隊を学び、日露戦争で大活躍。退役後に陸軍大将となっていた好古を、私立北予中学(現在の松山北高)の校長に担ぎ出したのも拓川。また、明治30年に好古と長次郎が大阪で初めて会ったとき、拓川が共通の知人にいたことが親密度を増すきっかけに。以降、好古と長次郎は、好古が亡くなるまで親友として、深いつきあいを続けます。

★新田長次郎。若くして大阪に出て製革業を起こし、工業用ベルトの製造で国内外で大きなシェアを占めた。明治26年、西洋の進んだ製革製造技術習得のため、単身シカゴ万博を視察。さらに立ち寄ったパリ日本公使館で代理大使加藤拓川に、伊予弁を使ったことで同郷人として知己に。以後、深いつきあいを続け、松山大学の前身、松山高商創設資金の負担を長次郎に承諾させたのは拓川。長次郎は、最終的には必要な資金を、全額負担した。 
 
なお、拓川の「拓」は「手」偏に「石」のつくりなので、「拓川」で「石手川」を表します。
お墓は、松山市拓川町の相向寺に。墓碑銘は、自筆の「拓川居士骨」だけ。
 

 
      

2013年9月8日日曜日

松山市高浜沖の小島(3)---九十九島---


九十九島といっても多くの人には、聞き慣れない名かも知れない。でも、見たことがある人は多い。
なぜなら、現在の高浜観光港のすぐ沖合にある小さな島で、いかにも船の入港の邪魔になりそうな存在だからである。高浜観光港から、広島の宇品港や関西方面に行ったことがある人は、間近に見ている。
ただ、関西方面への航路がなくなったので、以前に比べると、目にする人が減ったかも知れない。



特に島に由来があるわけではないが、唯一あるとすれば、明治時代の一時期に中学校のボートレース大会の目標になったことだろう。

松山中学は、現在の松山東高の前身で、創立は明治11年(1878)、愛媛県松山中学校として開校した。
その後、明治29年(1896)に、東予分校と南予分校を設置。
さらに明治32年(1899)に、東予分校が愛媛県西条中学校(現在の西条高校)、南予分校が愛媛県宇和島中学校(現在の宇和島東高校)として独立。県内三中学校体制となった。

明治33年(1900)に宇和島中学校に短艇部が設置されたのをきっかけに、松山中学校、西条中学校にも相次いで設置され、翌明治34年(1901)9月22日に、高浜沖から九十九島に向け途中回航する約1,000mの距離で、三中学対抗のボートレース大会が開かれた。

 この時の優勝は、大差で松山中学校。帰りの伊予鉄電車の中では、松山中学校側は、散々宇和島中学校をあざ笑ったという。
この時に悔しい思いをした宇和島中学校の生徒が、雪辱を期して作った詞が、「思へば過ぎし」である。曲は、一高の寮歌「思へば過ぎし神の御代」をそのまま使ったが、現在と違って、歌舞音
 曲の少ない時代、四国はもとより、西日本の学生や女性、子供にまで愛唱されるようになった。 
なお、雪辱戦は  翌明治35年(1902)10月21日に、松山中学校を宇和島に迎えて行われ、今度は、宇和島中学校が快勝した。
さらに、翌年にも第3回目の対抗試合が行われ、この時も宇和島中学校が勝利した。
なお、この対抗試合は、これを最後として、以後は開催されなくなった。 

この当時は、国鉄の予讃線がまだ開通していないので、中学生の移動は、船または徒歩だった。予讃線の高松~松山間が開通するのが昭和2年(1927)。松山~宇和島間の開通に至っては、太平洋戦争終戦間近の 昭和20年(1945)6月である。

対抗試合としての、ボートレース大会は、開かれなくなったが、松山中学校と宇和島中学校では、その後も、校内イベントしてボートレース大会を継続している。

両校のホームページによると、平成12年で、松山東高は44回目のボートレース大会を、宇和島東高は100回目の大会を開いたとのことである。
両校で回数に大きく違いがあるが、これは創立以来、頻繁に学制改革が行われたことから、何時を初回とするか、両校によって違いがあるためと思われる。

なお、日露戦争の時に、松山にロシア兵俘虜収容所(明治37年(1904)2月~明治39年(1906)2月)がつくられた。
この時、捕虜たちを招いて歓待する催しが各所で開催され、伊予市の彩濱館招待(明治37年(1904)9月、道後公園での自転車レース大会(明治38年(1905)8月、砥部焼見学(明治38年(1905)9月などが行われた。
高浜で行われた松山中学校のボートレース大会にも、ロシア兵将校が招待されている。


2013年9月7日土曜日

松山市高浜沖の小島(2)---高浜駅の変遷---

伊予鉄道の高浜駅は、明治25年(1892)に三津から延伸する形でできた。
その時の高浜駅舎は、現在の高浜駅よりも500m近く松山寄りにあった。当初は、梅津寺駅と高浜駅の間にはトンネルがあって、高浜駅は、トンネルを出たところあたりにあったようだ。

子規や漱石たちが高浜を訪れたときは、まさに四十島の目の前に着いた。



その頃の、松山の海の玄関は三津で、主要な航路は、全て三津にあり三津の港には「きせんのりば」の石碑が残っている。
 この頃の高浜には、まともな港湾設備がなく、航路は三津港に着いていた。
子規や秋山兄弟が東京に出発したのも、漱石が松山中学に赴任してきたときも、利用したのは、三津港である。


しかし、三津は遠浅で、大きな船は沖合に停泊して、人や荷物は艀で行き来をしていた。
伊予鉄の社長である井上要は、深い水深を持つ高浜を海と陸の結節点にしようと、高浜港の改修を行い、それに合わせて、高浜駅も500m近く移動させて港の近くに持っていくことで、海陸の連携をめざした。

時期は日露戦争のころで、軍の要請もあって、大きな船が桟橋に直接着岸できる港を目指した。このため、用地の埋め立てに、明治37年(1904)10月には、30人のロシア人捕虜を使ったりもしたが、それは賃金のことで折り合わず、3日だけの試みに終わった。
高浜駅の用地も埋め立て地である。高浜線の延長は、明治38年に完了して駅も移転した。明治39年(1906)には、大阪商船が全便の寄港地を三津港から高浜港に変更したことで、伊予鉄の井上要社長が目指していた海陸の連携が達成された。

しかし、このことは、港として栄えてきた三津にとっては大打撃で、やがて県政や国政をも巻き込んだ大騒動になっていく。

高浜駅の現在の駅舎は、昭和の6年頃に建てられたものと言われている。
この頃に高浜線が電化されているので、その頃に建て替えられたのかも知れない。
時々、映画のロケにも使われており、最近では、平成25年(2013)に公開された「真夏の方程式」では、「玻璃ヶ浦駅」として登場する。



なお、同じ頃に建てられた駅舎としては、同じ高浜線の三津駅があったが、三津駅は老朽化のために建て替えられた。ただ、その時に、昔のデザインに似せて外観を復元している。

三津駅にはアール・ヌーヴォ調の曲線が目を引くが、かつての高浜駅にも同じデザインが取り入れられていたとか。改築の際に変更されたようだ。

●山頭火の句碑
放浪の俳人山頭火が、終の棲家を求めて広島港から松山にやってきたのは、昭和14年(1939)10月1日である。
この時の句が、現在の高浜駅からやや梅津寺寄りの県道沿いに立っている。この位置は、どちらかというと、旧高浜駅の位置に近いが、もちろん現在の高浜駅が利用されていた。



 「秋晴れひよいと四国へ渡ってきた」

何となく先行きに明るさを感じる句である。事実、山頭火は、このあと城北の「一草庵」に終の棲家を得て、句作と酒と温泉を楽しんで、昭和15年(1940)10月には亡くなっている。

松山市高浜沖の小島(1)---四十島(ターナー島)---

●ターナー島の景観
平成19年(2007)2月四十島は、名勝地として国の登録記念物となった。


ターナー島は、漱石が小説「坊っちゃん」(1906、明治39年)の中で、四十島のことを、
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「あの松を見たまえ、幹が真直まっすぐで、上がかさのように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。
すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議ほつぎをした。赤シャツはそいつは面白い、吾々われわれはこれからそう云おうと賛成した。
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と描写して以来、ターナー島とも呼ばれている。
なお、「坊っちゃん」の中では、この島を「青嶋」と呼んでいるが、実際の青島は、ずっと西南、伊予灘の真ん中に浮かぶ有人島である。
現在の松は、マツクイムシで枯れてしまったのを、ボランティアの努力で復元した松だから、漱石の時代の松とは、姿形が違っている。


ターナー島にほど近い岸に、島を見る絶好のビューポイントがある。
小さな蛭子神社があって、その海岸寄りに狭い階段がついているので、それを登っていくと、丘の上からターナー島を望む絶好の景観が得られる。ただ、夏の間は、草が茂っているので、一番上までは行きにくい。


●初汐や

蛭子神社の敷地内に、子規の句碑が置かれている。



「初汐や 松に浪こす 四十島」 子規
「初汐」とは、旧暦8月15日の大潮のこと。旧暦の8月15日というと、新暦では、10月上旬になる。干満の差が最も激しい時期。

子規(1867・慶応3年~1902・明治35年)が、このあたりを訪れた時期は、2回と思われる。
伊予鉄道が明治25年(1892)5月に、三津から高浜まで延長された。

子規は明治25年(1892)に、帝国大学(東京大学)の夏休みで松山に帰省し、高浜を訪れている。

帰省していたのは7月11日から8月26日まで。
伊予鉄道が高浜まで開通して間もない頃に鉄道を使って、このあたりにやってきた。
四十島にも上陸したようだ。もちろん、まだこのときは、ターナー島という呼び名はない。

興居島が沖合にあるので、台風でも来ない限り、頂の松を越える大きな浪が起こるとは思えない。
また、そんな風の激しい時期に、電車を使ってわざわざここまで来るのも考えにくい。

この帰省のあと、子規は、10月には東京大学を退学して、12月に陸羯南の日本新聞社に入社し、お母さんと妹の律を東京に呼び寄せており、大きな転機を迎えた時期である。子規は、四十島を眺めながら、胸に新しい決意を育んでいたに違いない。
子規のこの句は、明治25年の(1892)の秋の句とされており、この時期子規は松山に帰って来ていない。望郷の句として読まれたものだろうが、大きな転機を迎えて、子規の心には心に期するところがあったに違いない。
何かを越えようとしていた子規には、頂の松を越えるような大きな浪が目に浮かび、自分もそうありたいと望んでいた句と考えた方が楽しい。

それだと「写生」の句にならないが、子規が中村不折と知り合い、写生を俳句に取り入れるのは、明治27年頃と言われているので、明治25年に詠んだとすれば、矛盾はない。 

なお、子規は、明治28年(1895)にも帰省して、高浜を訪れている。
この年5月、子規は日清戦争の取材からの帰路に船中で喀血。
須磨での療養を経て、8月には松山に帰ってきて、漱石と愚陀佛庵で同居する。
子規は、ここに8月27日に移ってきて10月19日まで滞在し、漱石らと良く高浜を訪れた。
このあと、10月には東京に戻って、俳句論である「俳諧大要」を発表する。

●浪の家
 子規の叔父である加藤拓川(1859・安政6年~1923・大正12年)が、大正11年(1922)に第5代松山市長になってから、この付近に家を建て、「浪の家」と呼んで、たいへん気に入っていた。亡くなったのもこの家である。
自分がかわいがっていた子規のこの句から、新しい家に「浪」を名をあてたのかもしれない。
拓川の日記に「浪の家」の写真がある。背景の興居島(ごごしま)とターナー島の位置関係から見て、「浪の家」は、神社からもう少し高浜駅寄りだったと思われる。



●興居島の句

子規がターナー島の沖にある興居島を詠んだ句がある。

「雪の間に小富士の風の薫りけり」
「小富士」とは、興居島で一番高い山のことである。
「雪の間」とは四十島に近い陸地部の海岸に「延齢館」という施設があったが、そこの「雪の間」のことである。

子規は、この施設に高浜虚子、河東碧梧桐と、あるいは漱石とも訪れて遊んだことがある。
上記の句は、明治25年(1892)7月25日に、虚子、碧梧桐の3人で「雪の間」に遊んだときに詠んだもの。

なお、句碑は、本来の場所である旧高浜港の近くではなく、その北につくられた新しい松山観光港のターミナル敷地入り口に建てられている。 




このほか、子規は、興居島の句では、「興居島へ 漁舟いそぐ 吹雪哉」という句も読んでおり、その句碑は、梅津寺から高浜に向かう県道の、伊予鉄の線路をまたぐ跨線橋のそばに置かれている。
 この句は、明治25年(1892)の秋に作られた句で、子規が帰ってきたわけではなく、望郷の句として読まれたものらしい。
もともと、ここはトンネルだったが、昭和6年(1931)に高浜線が電化されたときに開削されて、跨線橋が架けられた。

2013年8月11日日曜日

水野広徳--信念の反戦・平和論者---



水野広徳(1875~1945)は、松山市三津浜の出身。
松山中学に2回も入学したという変わり種。1回目は卒業試験に不合格となり、そのまま退学。ところが、行きたかった江田島の海軍兵学校を受験するには学力不足であることに気づいて、再度入学。
海軍兵学校には、正規の試験は落ちたが、たまたま海軍の増強期で、追加募集があったので、やっと入学できた。

海軍には、同じ松山中学校を出た秋山真之(1865~1918)がいた。彼はいうまでもなく、日露戦争(1904~1905)の連合艦隊作戦参謀として、日本海海戦大勝利の立役者となる。

水野も、当時は30歳の若手大尉。水雷艇の艇長として、旅順港の封鎖作戦や日本海海戦に参加した。

日本海海戦では、戦艦など主力艦による砲撃戦ばかりが強調されるが、夜になって砲撃戦が終了した後、駆逐艦や水雷艇など小型艦が魚雷などを武器に執拗な攻撃を行ったことが戦果を拡大したといわれる。


水野は日露戦争後、戦史編纂に携わったことから、ここで得た情報と実際に戦闘に携わった経験をもとに「此一戦」という本を発表。これが桜井忠温の「肉弾」と並ぶベストセラーとなり、一躍、戦記文学作家、軍事評論家として知られるようになった。 


「此一戦」には、戦後育ちの我々が見たこともない難しい熟語が次々と出てくる。ただ、きちんと意味を理解できなくても、漢文調でリズム感が良いので、漢字の字面を追っていけば、何となく内容は分かるす。
中身は、データをきっちり押さえながら、客観的かつ日露に公平な書きっぷり。




水野の著作は、現時点(2013年8月)では、この本だけが書店で購入できる。ただし、店頭には置かれていないと思うので、amazonや紀伊国屋web-shopでなら、購入可能である。
他の著作については、国会図書館でpdf化されているので、そこからダウンロードすれば読むことができる。



アメリカは、日露戦争の講和では調停役として振る舞ったが、米西戦争(1898)でフィリピンやグァムを手に入れたうえ、さらにハワイをも占領しており、日露戦争終結直後から、ロシアの後を襲ってアジアに進出することを企てていた。
日露戦争をきっかけに欧米では黄禍論が高まり、これに便乗する形で、アメリカは排日移民法のような日本をターゲットとした締め付けを強めて いく。その結果、日米双方で、日米戦争が将来不可欠とする世論が高まり、日米戦争を想定した未来戦記がたくさん出版され、よく売れるようになっていく。こうして、日米双方の間で、開戦への世論が形成されていく。

水野も、自ら日米戦争の未来戦記「次の一戦」(1914)を書き、対米戦に備えた軍備拡張を声高に主張していた が、第一次世界大戦(1914~1918)のフランスとドイツを自費で視察し、飛行機、戦車、毒ガスといった近代兵器の殺傷力・破壊力のすさまじさと、総力戦が勝敗にかかわらずもたらす国土の荒廃を実見して、これからの戦争には勝者がいないと確信。
以降、一転して非戦・反戦を強く唱え始めた。

彼は、昭和5年(1930)に「海と空」を著して、軍人らしい冷静な分析で、もし日米が戦ったなら、補給路を断たれて必ず日本が負けること、飛行機の発達で空の戦いが主力になり東京が空襲で焼け野原になることを予言する。
しかし、日本では、昭和5年のロンドン軍縮会議への反発から、統帥権干犯問題が持ち出されるなど、次第に軍部の独走を許す情勢が生まれており、冷静な議論より、根拠がなくても威勢の良いだけの声が世の中を占めるようになっていた。
やがて、水野のような平和論者は、軍部から危険分子と見なされて、発表の場すら奪われてしまうことになる。
実際の戦争は、ほぼ水野の予言したとおり、補給路を断たれて日本は惨敗、東京も大空襲を受けて焼け野原になった。
しかし、水野は、発表の場すら奪われたまま、終戦直後の昭和20年10月に療養に来ていた大島(現在は今治市)で失意のうちに病没。



秋山兄弟は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で一躍、全国的に有名になった。
水野は、猪瀬直樹が、「黒船の世紀」---ガイアツと日米未来戦記---で詳しく採り上げて
いる。
この本は優れたノンフィクションで、猪瀬直樹が立派な作家だったことを思い出させる。
でも、売れ行きは、「坂の上の雲」に遠く及ばない。
したがって、全国的に水野の知名度はそれほど高くない。
 
水野広徳は、松山人の間でもそれほど知られているわけではない。
ただ、南海放送が、これまでも何回か特集番組をつくっている。
2013年1月にも、東京都知事の猪瀬直樹を招いて松山で講演を行った。その模様は、3月に特集番組として放映された。
猪 瀬直樹は、都知事になって間もない極めて多忙の中をやってきた。副知事の時に約束してしまった講演だからと言っていたが、彼は副知事を終えたら、元の作家 に戻って著作や講演をするつもりだったのだろう。そう考えると、この時期に松山での講演を引き受けた理由が納得できる。



水野の歌碑が、松山の子規堂がある正宗寺に立っている。場所は、坊っちゃん列車のすぐ横にあるので、多くの人が見ているはず。

しかし、水野広徳という人物がいたことすら知らないので、だれも足を止めることはない。





刻まれている歌は、
「世にこびず人におもねらず、我はわが正しと思ふ道を進まむ」
不遇の環境にあっても、屈することなく非戦・反戦を貫いた、水野の心意気を感じさせる。なお、書は松山中学後輩の安倍能成による。

お墓は、松山市の中の川通りに面した近代的なつくりの蓮福寺にある。
水野個人ではなく、水野家のお墓で、水野広徳自身が建てている。
背後におおきな「平和護念の碑」が建てられているほか、南海放送の記念モニュメントも敷地内にある。





同郷の海軍軍人として、秋山真之との交流はあまりないと思われる。
「此一戦」を書いたときには、作戦参謀だった真之には手紙で尋ねている。
また、日露戦争時の旅順閉塞作戦を書いた「戦影」を出版する際には、真之が序文を寄せているらしく、それが残っている。しかし、実際の本には採用されていない。


アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が感銘を受け、米軍将兵に配付を命じたというのが、東郷平八郎が読んだ「連合艦隊解散之辞」である。真之が起草したと言われている。この中では、平時の備えを強調しており、反戦・非戦に転じた水野とは、相容れないところがあっただろう。

ただ、秋山兄弟が亡くなったあと、それぞれの有志の会で『秋山真之』(昭和8年 秋山真之会)・『秋山好古』(昭和11年 秋山好古大将伝記刊行会)の伝記を制作しているが、水野はその監修には関わっているようだ。 

軍人ではないが、同郷の著名人として加藤拓川(1859~1923)がいる。長らく外交官を務め、晩年の松山市長時代に議会で反戦演説を行った。お互い同郷のよしみで知っているはずだし、思想的にも彼とは一致する部分があると思うが、二人が深く接触した気配はない。
ただ、水野が墓を蓮福寺につくったのは、もしかすると拓川に倣ったのかも知れない。