2011年6月4日土曜日

松山城北の歌碑

松山城北には、護国神社のほかに、多くの寺が集まっている。ここの境内をゆっくりと見てみると歌碑や句碑がたくさんある。
 
 まず護国神社。拝殿に向かって右側に亀山院の歌碑がある。特に、この護国神社に関係があるとは思えないので、なぜ歌碑が置かれているのかはよく分からない。



 境内の左奥には、有名な額田王のにぎたつの歌碑がある。この歌碑は、万葉集に出ている万葉仮名がそのまま使われている。
「熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜」。
読み方「熟田津(にきたつ)に、船(ふな)乗りせむと、月待てば、潮(しほ)もかなひぬ、今は漕(こ)ぎ出(い)でな」。
  にぎたつの場所は、三津とか和気とかいろいろ候補が出ているが、この御幸寺山周辺も候補地である。ただ、当時の海岸線や川の状況がはっきりしない限り、場 所は特定できそうにない。朝鮮半島を攻める目的があったのだから、たくさんの軍船が同行しているなら、1カ所の港ではないかも知れないし。


 護国神社の近くに、山頭火の終焉地の一草庵がある。最近きれいに整備し直され、資料もきちんと展示されているので、山頭火のことが分かりやすくなった。ここには当然ながら、いくつかの句碑がある。
「濁れる水の流れつつ澄む」「春風の鉢の子一つ」「鉄鉢の中へも霰」
特に鉄鉢(てっぱつ)の句は、没後初めて建てられた句碑で、山頭火のあごひげが納められていることもあって、信奉者からはお墓のように扱われている。




 一草庵から少し西の千秋寺には、子規の句碑がある。いずれも、千秋寺を歌った句である。
「山本や黄檗杉は秋」「画を書きし僧今あらず寺の秋」



寺町の山に少し入ると、日露戦争で捕虜になり松山の収容所でなくなったロシア人の墓地がある。ここはいつでも、花が手向けられて掃除も行き届いている。ここには、波多野晋平の妻の二美(ふみ)の句碑がある。
「永久(とわ)眠る孝子ざくらのそのほとり」
孝子ざくらとは、かつてロシア人墓地から少し登った龍穏寺にあった十六日桜のことである。


ロシア人墓地から続いている来迎寺の墓地には、足立重信の墓があり、この墓前の灯籠にも歌が刻まれている。
内藤鳴雪「功(いさおし)や三百年の水も春」、村上 霽月(せいげつ)「宝川伊予川の秋の出水哉」






山越えの寺町地区の入り口に近い長建寺の門前には、松風会と句会で子規が「圧巻」として選んだ句が、子規の書のまま句碑として置かれている。大島梅屋「門前に野菊さきけり長建寺」。



また、境内には、山頭火と彼が亡くなるまで支援した高橋洵(いちじゅん)の句碑が、相対して置かれている。山頭火「もりもりもりあがる雲へ歩む」、高橋洵「母と行く この細径のたんぽぽの花」


 長建寺のお隣が弘願寺である。伊予七福神の弁財天のお寺としてよく知られている。
ここには、先年亡くなった坂村真民さんの碑がいくつか置かれている。
「二度とない人生だから」「念ずれば花開く」のほか、入り口近くにある七福神の像の横にある「愛の道しるべ」も真民さんの書である。




山 越えから少し北にある姫原は、古事記に出てくる軽皇子と軽大娘皇女の終焉の地であるとの言い伝えがある。ここには、軽之神社とという小さな神社がある.


 そこから山に向かって少し行ったところに、二人のお墓と伝えられる比翼塚がある。



ここには、大王の位も命も捨てて、実の兄妹との禁断の恋を選択した二人の 歌碑がある。

軽皇子が伊予に流されるときに詠んだ歌
「天飛(あまと)ぶ 鳥も使ひぞ 鶴(たづ)が音(ね)の聞こえむ時は 我が名問はさね 」

軽大娘皇女が流された兄を追っていくことを決意して詠んだ歌
「君が行き 気長(けなが)くなりぬ やまたづの 迎えは行かむ 待つには待たじ」