2013年4月28日日曜日

坊っちゃん列車の廃線跡---坊っちゃん列車と松山電鉄---

●坊っちゃん列車の廃線跡

小説「坊っちゃん」に「この住田と言う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊郭がある。」と言う一節があります。 

ここに出てくる「汽車」は、坊っちゃんが三津に着いた時に乗った伊予鉄道と違い、道後鉄道の汽車です。 
漱石の松山中学赴任が明治28年4月。道後鉄道が開通したのが、28年8月ですから、 漱石が来て間もなしに、一番町から道後間の坊っちゃん列車が開通しました。 

このときの路線は、現在の伊予鉄道市内電車の路線とは異なります。今は廃線になっていますが、その跡を今でもたどれます。 
大街道の駅から勝山町に出て、愛媛銀行本店が建っている敷地を斜めによぎると、愛媛銀行裏の緩やかに左にカーブをしている道路に出ます。 
この道路にしたがっ て北上し、気象台の西を通って、南町の矢野産婦人科の交差点に。 
 




 




そこから広い通りを北に横断すると、今度は緩やかに右カーブをしている道があります。
途中、住宅が廃線跡をふさいでいますが、そこを越えると、友輪荘の北の細い道に出ますので、その道を東にたどり、祝谷に抜ける県道を越えて、まっすぐ東に行けば、伊予鉄の道後温泉駅に行き着きます。













勝山町からここまで、歩いて約30分。漱石の愚陀物庵は三越の裏あたりですから、 
もう少し距離は長いですが、明治の人は健脚ですから、「坊っちゃん」に書いて 
いるように、30分で行かれたのでしょう。 
 

●松山電軌鉄道の廃線跡

松山東署の向かい側、労研饅頭とそば吉の間に、一番中に向かって南西方向に斜めに向かう道路があります。一番町側は、井手ビルの横に出ます。 この道は、松山電気軌道の廃線跡です。 
一方の入り口から反対方向に目をこらすと、向こうに小さく行き交う電車や車を見ることができます。 






道後鉄道は、明治33年に伊予鉄道が買収しました。 
その後、明治44年に松山電気軌道が、三津から大街道を経由して道後までの電車を新たに開通させました。 



伊予鉄では対抗上、道後線を汽車の坊っちゃん列車(軌間762ミリ)から、軌間 1067ミリの電車に改めました。 
松山電鉄は、最初から軌間1435ミリの電車を走らせました。 
当然、運賃の値引き、芝居小屋の割引券付きなどの激しい競争が起こり、大正10年に両社が合併するまで続きました。 

松山中学が二番町(現NTT付近)から、持田町に移転したのが大正5年です。 
もしかすると、生徒や先生たちは、この競争のおこぼれにあずかれたのかも知れません。

2013年4月13日土曜日

垣生山(はぶやま)

お天気に誘われて、垣生山(はぶやま)に行ってきました。 
垣生山というのは、新空港通りの弁天山トンネルが通っている山で、南から垣生 
山、津田山、弁天山と標高100m少々の小高い山が連なってます。 

このうち垣生山の山頂は、桜が植えられ、展望台、東屋、ベンチなどが整備されてます。


 









昔、湯築城の出城が置かれていた歴史や、現状の公園としての整備状況は、江戸 
さんたちがお世話している桑原地区の淡路ケ峠(あわじがとう)とよく似ていま 
す。 

山頂まで20〜30分。そこからは、淡路ケ峠付近から南にぐるっと松山平野の 
景観が望め、さらに海側は郡中あたりから興居島までのパノラマが楽しめます。 
夕陽を背景に松山空港を離発着する飛行機の撮影ポイントとしても知られている 
とか。 

欠点は、飛行機の音が良く聞こえるので、静かに鳥の鳴き声を楽しむことはでき 
ません。