2013年9月8日日曜日

松山市高浜沖の小島(3)---九十九島---


九十九島といっても多くの人には、聞き慣れない名かも知れない。でも、見たことがある人は多い。
なぜなら、現在の高浜観光港のすぐ沖合にある小さな島で、いかにも船の入港の邪魔になりそうな存在だからである。高浜観光港から、広島の宇品港や関西方面に行ったことがある人は、間近に見ている。
ただ、関西方面への航路がなくなったので、以前に比べると、目にする人が減ったかも知れない。



特に島に由来があるわけではないが、唯一あるとすれば、明治時代の一時期に中学校のボートレース大会の目標になったことだろう。

松山中学は、現在の松山東高の前身で、創立は明治11年(1878)、愛媛県松山中学校として開校した。
その後、明治29年(1896)に、東予分校と南予分校を設置。
さらに明治32年(1899)に、東予分校が愛媛県西条中学校(現在の西条高校)、南予分校が愛媛県宇和島中学校(現在の宇和島東高校)として独立。県内三中学校体制となった。

明治33年(1900)に宇和島中学校に短艇部が設置されたのをきっかけに、松山中学校、西条中学校にも相次いで設置され、翌明治34年(1901)9月22日に、高浜沖から九十九島に向け途中回航する約1,000mの距離で、三中学対抗のボートレース大会が開かれた。

 この時の優勝は、大差で松山中学校。帰りの伊予鉄電車の中では、松山中学校側は、散々宇和島中学校をあざ笑ったという。
この時に悔しい思いをした宇和島中学校の生徒が、雪辱を期して作った詞が、「思へば過ぎし」である。曲は、一高の寮歌「思へば過ぎし神の御代」をそのまま使ったが、現在と違って、歌舞音
 曲の少ない時代、四国はもとより、西日本の学生や女性、子供にまで愛唱されるようになった。 
なお、雪辱戦は  翌明治35年(1902)10月21日に、松山中学校を宇和島に迎えて行われ、今度は、宇和島中学校が快勝した。
さらに、翌年にも第3回目の対抗試合が行われ、この時も宇和島中学校が勝利した。
なお、この対抗試合は、これを最後として、以後は開催されなくなった。 

この当時は、国鉄の予讃線がまだ開通していないので、中学生の移動は、船または徒歩だった。予讃線の高松~松山間が開通するのが昭和2年(1927)。松山~宇和島間の開通に至っては、太平洋戦争終戦間近の 昭和20年(1945)6月である。

対抗試合としての、ボートレース大会は、開かれなくなったが、松山中学校と宇和島中学校では、その後も、校内イベントしてボートレース大会を継続している。

両校のホームページによると、平成12年で、松山東高は44回目のボートレース大会を、宇和島東高は100回目の大会を開いたとのことである。
両校で回数に大きく違いがあるが、これは創立以来、頻繁に学制改革が行われたことから、何時を初回とするか、両校によって違いがあるためと思われる。

なお、日露戦争の時に、松山にロシア兵俘虜収容所(明治37年(1904)2月~明治39年(1906)2月)がつくられた。
この時、捕虜たちを招いて歓待する催しが各所で開催され、伊予市の彩濱館招待(明治37年(1904)9月、道後公園での自転車レース大会(明治38年(1905)8月、砥部焼見学(明治38年(1905)9月などが行われた。
高浜で行われた松山中学校のボートレース大会にも、ロシア兵将校が招待されている。


2013年9月7日土曜日

松山市高浜沖の小島(2)---高浜駅の変遷---

伊予鉄道の高浜駅は、明治25年(1892)に三津から延伸する形でできた。
その時の高浜駅舎は、現在の高浜駅よりも500m近く松山寄りにあった。当初は、梅津寺駅と高浜駅の間にはトンネルがあって、高浜駅は、トンネルを出たところあたりにあったようだ。

子規や漱石たちが高浜を訪れたときは、まさに四十島の目の前に着いた。



その頃の、松山の海の玄関は三津で、主要な航路は、全て三津にあり三津の港には「きせんのりば」の石碑が残っている。
 この頃の高浜には、まともな港湾設備がなく、航路は三津港に着いていた。
子規や秋山兄弟が東京に出発したのも、漱石が松山中学に赴任してきたときも、利用したのは、三津港である。


しかし、三津は遠浅で、大きな船は沖合に停泊して、人や荷物は艀で行き来をしていた。
伊予鉄の社長である井上要は、深い水深を持つ高浜を海と陸の結節点にしようと、高浜港の改修を行い、それに合わせて、高浜駅も500m近く移動させて港の近くに持っていくことで、海陸の連携をめざした。

時期は日露戦争のころで、軍の要請もあって、大きな船が桟橋に直接着岸できる港を目指した。このため、用地の埋め立てに、明治37年(1904)10月には、30人のロシア人捕虜を使ったりもしたが、それは賃金のことで折り合わず、3日だけの試みに終わった。
高浜駅の用地も埋め立て地である。高浜線の延長は、明治38年に完了して駅も移転した。明治39年(1906)には、大阪商船が全便の寄港地を三津港から高浜港に変更したことで、伊予鉄の井上要社長が目指していた海陸の連携が達成された。

しかし、このことは、港として栄えてきた三津にとっては大打撃で、やがて県政や国政をも巻き込んだ大騒動になっていく。

高浜駅の現在の駅舎は、昭和の6年頃に建てられたものと言われている。
この頃に高浜線が電化されているので、その頃に建て替えられたのかも知れない。
時々、映画のロケにも使われており、最近では、平成25年(2013)に公開された「真夏の方程式」では、「玻璃ヶ浦駅」として登場する。



なお、同じ頃に建てられた駅舎としては、同じ高浜線の三津駅があったが、三津駅は老朽化のために建て替えられた。ただ、その時に、昔のデザインに似せて外観を復元している。

三津駅にはアール・ヌーヴォ調の曲線が目を引くが、かつての高浜駅にも同じデザインが取り入れられていたとか。改築の際に変更されたようだ。

●山頭火の句碑
放浪の俳人山頭火が、終の棲家を求めて広島港から松山にやってきたのは、昭和14年(1939)10月1日である。
この時の句が、現在の高浜駅からやや梅津寺寄りの県道沿いに立っている。この位置は、どちらかというと、旧高浜駅の位置に近いが、もちろん現在の高浜駅が利用されていた。



 「秋晴れひよいと四国へ渡ってきた」

何となく先行きに明るさを感じる句である。事実、山頭火は、このあと城北の「一草庵」に終の棲家を得て、句作と酒と温泉を楽しんで、昭和15年(1940)10月には亡くなっている。

松山市高浜沖の小島(1)---四十島(ターナー島)---

●ターナー島の景観
平成19年(2007)2月四十島は、名勝地として国の登録記念物となった。


ターナー島は、漱石が小説「坊っちゃん」(1906、明治39年)の中で、四十島のことを、
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「あの松を見たまえ、幹が真直まっすぐで、上がかさのように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。
すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議ほつぎをした。赤シャツはそいつは面白い、吾々われわれはこれからそう云おうと賛成した。
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と描写して以来、ターナー島とも呼ばれている。
なお、「坊っちゃん」の中では、この島を「青嶋」と呼んでいるが、実際の青島は、ずっと西南、伊予灘の真ん中に浮かぶ有人島である。
現在の松は、マツクイムシで枯れてしまったのを、ボランティアの努力で復元した松だから、漱石の時代の松とは、姿形が違っている。


ターナー島にほど近い岸に、島を見る絶好のビューポイントがある。
小さな蛭子神社があって、その海岸寄りに狭い階段がついているので、それを登っていくと、丘の上からターナー島を望む絶好の景観が得られる。ただ、夏の間は、草が茂っているので、一番上までは行きにくい。


●初汐や

蛭子神社の敷地内に、子規の句碑が置かれている。



「初汐や 松に浪こす 四十島」 子規
「初汐」とは、旧暦8月15日の大潮のこと。旧暦の8月15日というと、新暦では、10月上旬になる。干満の差が最も激しい時期。

子規(1867・慶応3年~1902・明治35年)が、このあたりを訪れた時期は、2回と思われる。
伊予鉄道が明治25年(1892)5月に、三津から高浜まで延長された。

子規は明治25年(1892)に、帝国大学(東京大学)の夏休みで松山に帰省し、高浜を訪れている。

帰省していたのは7月11日から8月26日まで。
伊予鉄道が高浜まで開通して間もない頃に鉄道を使って、このあたりにやってきた。
四十島にも上陸したようだ。もちろん、まだこのときは、ターナー島という呼び名はない。

興居島が沖合にあるので、台風でも来ない限り、頂の松を越える大きな浪が起こるとは思えない。
また、そんな風の激しい時期に、電車を使ってわざわざここまで来るのも考えにくい。

この帰省のあと、子規は、10月には東京大学を退学して、12月に陸羯南の日本新聞社に入社し、お母さんと妹の律を東京に呼び寄せており、大きな転機を迎えた時期である。子規は、四十島を眺めながら、胸に新しい決意を育んでいたに違いない。
子規のこの句は、明治25年の(1892)の秋の句とされており、この時期子規は松山に帰って来ていない。望郷の句として読まれたものだろうが、大きな転機を迎えて、子規の心には心に期するところがあったに違いない。
何かを越えようとしていた子規には、頂の松を越えるような大きな浪が目に浮かび、自分もそうありたいと望んでいた句と考えた方が楽しい。

それだと「写生」の句にならないが、子規が中村不折と知り合い、写生を俳句に取り入れるのは、明治27年頃と言われているので、明治25年に詠んだとすれば、矛盾はない。 

なお、子規は、明治28年(1895)にも帰省して、高浜を訪れている。
この年5月、子規は日清戦争の取材からの帰路に船中で喀血。
須磨での療養を経て、8月には松山に帰ってきて、漱石と愚陀佛庵で同居する。
子規は、ここに8月27日に移ってきて10月19日まで滞在し、漱石らと良く高浜を訪れた。
このあと、10月には東京に戻って、俳句論である「俳諧大要」を発表する。

●浪の家
 子規の叔父である加藤拓川(1859・安政6年~1923・大正12年)が、大正11年(1922)に第5代松山市長になってから、この付近に家を建て、「浪の家」と呼んで、たいへん気に入っていた。亡くなったのもこの家である。
自分がかわいがっていた子規のこの句から、新しい家に「浪」を名をあてたのかもしれない。
拓川の日記に「浪の家」の写真がある。背景の興居島(ごごしま)とターナー島の位置関係から見て、「浪の家」は、神社からもう少し高浜駅寄りだったと思われる。



●興居島の句

子規がターナー島の沖にある興居島を詠んだ句がある。

「雪の間に小富士の風の薫りけり」
「小富士」とは、興居島で一番高い山のことである。
「雪の間」とは四十島に近い陸地部の海岸に「延齢館」という施設があったが、そこの「雪の間」のことである。

子規は、この施設に高浜虚子、河東碧梧桐と、あるいは漱石とも訪れて遊んだことがある。
上記の句は、明治25年(1892)7月25日に、虚子、碧梧桐の3人で「雪の間」に遊んだときに詠んだもの。

なお、句碑は、本来の場所である旧高浜港の近くではなく、その北につくられた新しい松山観光港のターミナル敷地入り口に建てられている。 




このほか、子規は、興居島の句では、「興居島へ 漁舟いそぐ 吹雪哉」という句も読んでおり、その句碑は、梅津寺から高浜に向かう県道の、伊予鉄の線路をまたぐ跨線橋のそばに置かれている。
 この句は、明治25年(1892)の秋に作られた句で、子規が帰ってきたわけではなく、望郷の句として読まれたものらしい。
もともと、ここはトンネルだったが、昭和6年(1931)に高浜線が電化されたときに開削されて、跨線橋が架けられた。