2013年9月7日土曜日

松山市高浜沖の小島(2)---高浜駅の変遷---

伊予鉄道の高浜駅は、明治25年(1892)に三津から延伸する形でできた。
その時の高浜駅舎は、現在の高浜駅よりも500m近く松山寄りにあった。当初は、梅津寺駅と高浜駅の間にはトンネルがあって、高浜駅は、トンネルを出たところあたりにあったようだ。

子規や漱石たちが高浜を訪れたときは、まさに四十島の目の前に着いた。



その頃の、松山の海の玄関は三津で、主要な航路は、全て三津にあり三津の港には「きせんのりば」の石碑が残っている。
 この頃の高浜には、まともな港湾設備がなく、航路は三津港に着いていた。
子規や秋山兄弟が東京に出発したのも、漱石が松山中学に赴任してきたときも、利用したのは、三津港である。


しかし、三津は遠浅で、大きな船は沖合に停泊して、人や荷物は艀で行き来をしていた。
伊予鉄の社長である井上要は、深い水深を持つ高浜を海と陸の結節点にしようと、高浜港の改修を行い、それに合わせて、高浜駅も500m近く移動させて港の近くに持っていくことで、海陸の連携をめざした。

時期は日露戦争のころで、軍の要請もあって、大きな船が桟橋に直接着岸できる港を目指した。このため、用地の埋め立てに、明治37年(1904)10月には、30人のロシア人捕虜を使ったりもしたが、それは賃金のことで折り合わず、3日だけの試みに終わった。
高浜駅の用地も埋め立て地である。高浜線の延長は、明治38年に完了して駅も移転した。明治39年(1906)には、大阪商船が全便の寄港地を三津港から高浜港に変更したことで、伊予鉄の井上要社長が目指していた海陸の連携が達成された。

しかし、このことは、港として栄えてきた三津にとっては大打撃で、やがて県政や国政をも巻き込んだ大騒動になっていく。

高浜駅の現在の駅舎は、昭和の6年頃に建てられたものと言われている。
この頃に高浜線が電化されているので、その頃に建て替えられたのかも知れない。
時々、映画のロケにも使われており、最近では、平成25年(2013)に公開された「真夏の方程式」では、「玻璃ヶ浦駅」として登場する。



なお、同じ頃に建てられた駅舎としては、同じ高浜線の三津駅があったが、三津駅は老朽化のために建て替えられた。ただ、その時に、昔のデザインに似せて外観を復元している。

三津駅にはアール・ヌーヴォ調の曲線が目を引くが、かつての高浜駅にも同じデザインが取り入れられていたとか。改築の際に変更されたようだ。

●山頭火の句碑
放浪の俳人山頭火が、終の棲家を求めて広島港から松山にやってきたのは、昭和14年(1939)10月1日である。
この時の句が、現在の高浜駅からやや梅津寺寄りの県道沿いに立っている。この位置は、どちらかというと、旧高浜駅の位置に近いが、もちろん現在の高浜駅が利用されていた。



 「秋晴れひよいと四国へ渡ってきた」

何となく先行きに明るさを感じる句である。事実、山頭火は、このあと城北の「一草庵」に終の棲家を得て、句作と酒と温泉を楽しんで、昭和15年(1940)10月には亡くなっている。

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