2011年4月29日金曜日

淡路ケ峠(あわじがとう)からの眺望

畑寺にある淡路ケ峠(あわじがとう)に登ってみた。
標高275m位だから、ふもとから登っても30分ほどで登ってしまう。登り道は勾配が強くて、それなりにしんどかったが、最近、ハイキングコースとして整備されているので、一応の整備はなされている。


昔、河野氏が築いた湯築城の出城として砦が置かれていた。高さはないが、思っていた以上に、パノラマ的な眺望が素晴らしい。
北は高縄山、湯山ヒルズ、白水台なども見える。正面は松山平野が一望できて、遠くは興居島や中島が見える。南は、高知方面への33号線を越えて、さらに南の鷹ノ子あたりまで見える。周りの木をもう少し切れば、もっと東まで見えるかも知れない。



ここに砦を置いていれば、松山平野に進入してくる敵は、どの方向から入ってきても、天気さえ良ければ一望の下に見えるだろう。山の高さもそれほど高くないので、麓との連絡も取りやすい。
まさに理想的な観測所になることだろう。

山頂の展望台に設置されていた説明版を読むと、ここの城主は、河野道直の家臣林淡路守通起(みちおき)と言うらしい。
河野氏は、秀吉の四国征伐に降参して、広島の小早川に預けられる形で竹原に移り、そこで河野氏は跡継ぎがなく途絶えたが、林淡路守の子孫はその後も続き、関ヶ原での毛利氏が防長2国に削られたときは、山口に移り住んだようだ。

その後、通起から11台あとに伊藤博文が出てくることになるが、博文自身、明治42年に来県したとき、道後の歓迎会で、「余の祖先は伊予河野氏の末流、林淡 路守通起なり。明年は通起の三百回忌の法要を営む心算なり」]と演説したそうだから、自身が林淡路守の末裔であることは、十分意識していたようだ。
もっとも、7カ月後の10月26日、ハルビン駅頭で射殺されたので、法要を営むこちにはならなかったが。




2011年4月14日木曜日

内子町石畳の彩り

内子町の石畳小学校に行くと、子供たちが作った石畳の案内図がありました。石畳の見所を上手にまとめてます。特に、道路や河川は、かなり正確に書かれていると思います。ただ、子供たちにはあまり珍しくないのか、屋根付き橋は一つしか描かれてません。ほかに3つもあるのに。



4月の中旬でも、何とかしだれ桜に間に合いました。満開を少し過ぎたところでしょうか。桜の盛りは過ぎても、ほかの花たちがたくさん咲いて、いろいろな色合いを見せてくれるので、とても彩り豊かで、華やかでした。
写真を撮った場所の近くに、手打ちのそば屋があります。石畳で食事ができるのは、ここくらいでしょう。腰がある独特の食感のそばですが、おいしかった。桜を眺めながらそばを食べました。








しだれ桜のすぐ近くに、弓削神社があります。芸予諸島の弓削島にある法皇社から勧請したようです。その神社は池の向こうに本殿がありますので、お参りするためには、池にかかった屋根付き橋をわたるしかありません。池と橋がとてもマッチしています。







簡単な道路標示にしたがって少し車を走らせると水車にたどり着きました。最初は、ぽつんと一つ水車が目に入っただけだったので、これだけかと物足りない思いでしたが、下の方には、あと2つの水車小屋と、屋根付き橋も1つあって、ちょっとした公園に整備しているようです。
サクラと菜の花のコラボも見ることができました。






もう1カ所屋根付き橋があるそうですが、そっちは行きませんでした。
その代わり、石畳を出て内子に帰りながら、NHKのスペシャルドラマの「坂の上の雲」で、オープニングに使われた屋根付き橋の「田丸橋」を見に行きました。正岡律役の菅野美穂ちゃんが渡っていく橋です。
橋から100m離れると民家があって、とても明治時代の風情はないですが、さすがにロケでは上手に撮っていると思います。

  


石畳は、内子町の中心部から、車で20分ほどですが、とても素晴らしい山村風景を持っていて、地域の人が大切に守り育てています。