2013年10月6日日曜日

加藤 拓川

松山大学には、創設三恩人と言われる人たちがいます。新田長次郎(温山)、加藤恒忠(拓川)、 加藤彰廉(あきかど)の3人です。このうち加藤恒忠(拓川)が、明教館の出身です。
 
 
 
 拓川は東高が出した小冊子「いのちまた燃えたり」にも載っていますが、そこには、少年時代に没落武士家庭で貧しかったエピソードが、長々と書かれているだけ。 
 というのも、拓川は不思議な人で、彼自身にこれと言って大きな功績があるわけではない。
しかし、彼と関わった人は、大きな功績を残しており、彼なくして、明治における松山人の大活躍はなかったかも知れない。

★まず子規。拓川は、子規の母八重の弟。子規にとって叔父にあたる。子規は明治16年に上京。この時拓川は、旧藩主久松定謨(さだこと)に随行して渡仏が決まっていたので、子規を、親友の陸羯南に託します。子規は、陸羯南と知り合ったことで、東大退学後も生活の安定と、俳句革新運動の舞台を得ることができた。なお、子規亡き後の正岡家は、妹の律が、拓川の三男を養子にもらって継いでいます。詳しくは「ひとびとの跫音」(司馬遼太郎)に。

★秋山好古。拓川は久松定謨(さだこと)に随行して渡仏しますが、明治19年には、後に総理大臣となる原敬の推挙で、フランス在住のまま外交官試補になります。そこで、定謨の補導役としての後任に選んだのが好古。好古は、フランスで騎兵隊を学び、日露戦争で大活躍。退役後に陸軍大将となっていた好古を、私立北予中学(現在の松山北高)の校長に担ぎ出したのも拓川。また、明治30年に好古と長次郎が大阪で初めて会ったとき、拓川が共通の知人にいたことが親密度を増すきっかけに。以降、好古と長次郎は、好古が亡くなるまで親友として、深いつきあいを続けます。

★新田長次郎。若くして大阪に出て製革業を起こし、工業用ベルトの製造で国内外で大きなシェアを占めた。明治26年、西洋の進んだ製革製造技術習得のため、単身シカゴ万博を視察。さらに立ち寄ったパリ日本公使館で代理大使加藤拓川に、伊予弁を使ったことで同郷人として知己に。以後、深いつきあいを続け、松山大学の前身、松山高商創設資金の負担を長次郎に承諾させたのは拓川。長次郎は、最終的には必要な資金を、全額負担した。 
 
なお、拓川の「拓」は「手」偏に「石」のつくりなので、「拓川」で「石手川」を表します。
お墓は、松山市拓川町の相向寺に。墓碑銘は、自筆の「拓川居士骨」だけ。
 

 
      

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