2013年9月7日土曜日

松山市高浜沖の小島(1)---四十島(ターナー島)---

●ターナー島の景観
平成19年(2007)2月四十島は、名勝地として国の登録記念物となった。


ターナー島は、漱石が小説「坊っちゃん」(1906、明治39年)の中で、四十島のことを、
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「あの松を見たまえ、幹が真直まっすぐで、上がかさのように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。
すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議ほつぎをした。赤シャツはそいつは面白い、吾々われわれはこれからそう云おうと賛成した。
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と描写して以来、ターナー島とも呼ばれている。
なお、「坊っちゃん」の中では、この島を「青嶋」と呼んでいるが、実際の青島は、ずっと西南、伊予灘の真ん中に浮かぶ有人島である。
現在の松は、マツクイムシで枯れてしまったのを、ボランティアの努力で復元した松だから、漱石の時代の松とは、姿形が違っている。


ターナー島にほど近い岸に、島を見る絶好のビューポイントがある。
小さな蛭子神社があって、その海岸寄りに狭い階段がついているので、それを登っていくと、丘の上からターナー島を望む絶好の景観が得られる。ただ、夏の間は、草が茂っているので、一番上までは行きにくい。


●初汐や

蛭子神社の敷地内に、子規の句碑が置かれている。



「初汐や 松に浪こす 四十島」 子規
「初汐」とは、旧暦8月15日の大潮のこと。旧暦の8月15日というと、新暦では、10月上旬になる。干満の差が最も激しい時期。

子規(1867・慶応3年~1902・明治35年)が、このあたりを訪れた時期は、2回と思われる。
伊予鉄道が明治25年(1892)5月に、三津から高浜まで延長された。

子規は明治25年(1892)に、帝国大学(東京大学)の夏休みで松山に帰省し、高浜を訪れている。

帰省していたのは7月11日から8月26日まで。
伊予鉄道が高浜まで開通して間もない頃に鉄道を使って、このあたりにやってきた。
四十島にも上陸したようだ。もちろん、まだこのときは、ターナー島という呼び名はない。

興居島が沖合にあるので、台風でも来ない限り、頂の松を越える大きな浪が起こるとは思えない。
また、そんな風の激しい時期に、電車を使ってわざわざここまで来るのも考えにくい。

この帰省のあと、子規は、10月には東京大学を退学して、12月に陸羯南の日本新聞社に入社し、お母さんと妹の律を東京に呼び寄せており、大きな転機を迎えた時期である。子規は、四十島を眺めながら、胸に新しい決意を育んでいたに違いない。
子規のこの句は、明治25年の(1892)の秋の句とされており、この時期子規は松山に帰って来ていない。望郷の句として読まれたものだろうが、大きな転機を迎えて、子規の心には心に期するところがあったに違いない。
何かを越えようとしていた子規には、頂の松を越えるような大きな浪が目に浮かび、自分もそうありたいと望んでいた句と考えた方が楽しい。

それだと「写生」の句にならないが、子規が中村不折と知り合い、写生を俳句に取り入れるのは、明治27年頃と言われているので、明治25年に詠んだとすれば、矛盾はない。 

なお、子規は、明治28年(1895)にも帰省して、高浜を訪れている。
この年5月、子規は日清戦争の取材からの帰路に船中で喀血。
須磨での療養を経て、8月には松山に帰ってきて、漱石と愚陀佛庵で同居する。
子規は、ここに8月27日に移ってきて10月19日まで滞在し、漱石らと良く高浜を訪れた。
このあと、10月には東京に戻って、俳句論である「俳諧大要」を発表する。

●浪の家
 子規の叔父である加藤拓川(1859・安政6年~1923・大正12年)が、大正11年(1922)に第5代松山市長になってから、この付近に家を建て、「浪の家」と呼んで、たいへん気に入っていた。亡くなったのもこの家である。
自分がかわいがっていた子規のこの句から、新しい家に「浪」を名をあてたのかもしれない。
拓川の日記に「浪の家」の写真がある。背景の興居島(ごごしま)とターナー島の位置関係から見て、「浪の家」は、神社からもう少し高浜駅寄りだったと思われる。



●興居島の句

子規がターナー島の沖にある興居島を詠んだ句がある。

「雪の間に小富士の風の薫りけり」
「小富士」とは、興居島で一番高い山のことである。
「雪の間」とは四十島に近い陸地部の海岸に「延齢館」という施設があったが、そこの「雪の間」のことである。

子規は、この施設に高浜虚子、河東碧梧桐と、あるいは漱石とも訪れて遊んだことがある。
上記の句は、明治25年(1892)7月25日に、虚子、碧梧桐の3人で「雪の間」に遊んだときに詠んだもの。

なお、句碑は、本来の場所である旧高浜港の近くではなく、その北につくられた新しい松山観光港のターミナル敷地入り口に建てられている。 




このほか、子規は、興居島の句では、「興居島へ 漁舟いそぐ 吹雪哉」という句も読んでおり、その句碑は、梅津寺から高浜に向かう県道の、伊予鉄の線路をまたぐ跨線橋のそばに置かれている。
 この句は、明治25年(1892)の秋に作られた句で、子規が帰ってきたわけではなく、望郷の句として読まれたものらしい。
もともと、ここはトンネルだったが、昭和6年(1931)に高浜線が電化されたときに開削されて、跨線橋が架けられた。

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