2011年12月25日日曜日

神田明神、将門塚&藤原純友

東京の神田明神が、江戸の総氏神で、御祭神が平将門であることはよく知られている。
2011年の11月に訪れたときは、ちょうど七五三の時期だったらしく、着飾った子供連れが次々に訪れて賑わっていた。

また、将門の首塚というものが全国各地に伝えられており、中でも、都心の大手町が有名である。
これまでも何度か整地しようと試みられたが、その都度祟りがあったととされている。その経緯は、「妄想かもしれない日本の歴史」(井上章一、角川選書)のいの一番にも詳しく採り上げられている。さすがに塚はなくなっているが、それでも日本を代表する一流企業の本社が建ち並ぶ中で、今も独特のオーラを漂わせている。
たくさんの花が添えられているところを見るとので、きっとお参りが絶えないのだろう。



藤原純友は、将門と同時期の10世紀半ばに、瀬戸内海の海賊衆を糾合して反乱を起こし、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)と一緒に呼ばれることが多い。

ただ、将門が、神田明神や各地の首塚など、伝説と史跡に事欠かないのく比べると、純友の場合は、驚くほど、そういった伝説や史跡が残っていない。

私が最近見つけたのが、松山市の西部にある久万ノ台の西の外れ、市営の明神墓地の一角で、「藤原純友の館跡」なる石柱である。

高台の端にあって、足下には町並みが海まで続いて、たいへん見晴らしが良い。

昔は、海岸線が現在よりも、かなり内陸に入っていたとも言われるので、久万の台の足下に渚があったとすると、この館跡は港のすぐ上の高台という絶好のロケーションかもしれない。

この館跡から、下に降りる狭い道がついていて、下には久枝神社という、神主無住の小さな神社がある。この神社にも純友の史跡がいくつかある。純友の駒立岩が一番の中心だ。
そのほかにも、「駒つなぎの松」の跡や、純友が使ったと言われる井戸の跡もある。

史跡の石柱が、いずれも新しいので、最近になって改修されたものか、新たに建てられたものだろう。地元の史跡保存会が、活発に活動しているものと思われる。

こうした取り組みは、史跡らしいものが乏しい純友関連のものとして、きわめて貴重である。

ただ、純友は従七位下伊予掾として、伊予国府の中では、国司に次ぐ第2位か3位の幹部であったが、平安時代の国府が今治に置かれていたことを考えると、本来なら純友の館跡は、今治にあるべきと思うのだが、どうだろう。










にぎたつの歌碑in松山

「熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜」
「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出な」

万葉集の8番目に出てくる額田王のこの歌は、地元では、もちろんよく知られた歌で、歌碑もあちこちにつくられている。
熟田津(にきたつ)という場所には、複数説があって、三津、和気、御幸が候補地としてあげられている。

2012年1月の時点では、私が調べた限り、これらの候補地に歌碑は6基である。

そのうち一番大きくて立派なのが、御幸寺山のふもと護国神社の境内にある歌碑である。
境内の正門から入って左奥の、いろいろな碑がたくさん置かれているあたりで、万葉植物園からも近い。
文字は、万葉仮名をそのまま用いて、行書体で書かれている。
ただ、場所は、御幸地区だからと言うことではなく、護国神社の境内と言うことで、ここに置かれているようだ。



三津地区には3つの歌碑がある。
一つ目は、三津の住宅街の中にある梅田町郵便局の敷地内にある。
文字は、万葉仮名を用いて、行書体で書かれている。
小さな歌碑だが、文字がよく見えて状態は良い。




三津の2つ目は、梅田町郵便局から、そのままやや東、川を渡って古三津地区内にある宮前小学校の校内にある。
正門を入って左側、フェンス沿いのやや奥である。
文字は、ひらがなまじりの読み下し文を使っており、独特の書体で書かれている。




三津の三つ目は、山西地区にある松山市営明神墓地を北側に降りたところ、神主無住の小さな神社である久枝神社の境内にある。
文字は、万葉仮名を隷書体で書かれている。
比較的新しく、地元の地域起こし団体が中心になって設置したようだ。
ほかにも、この神社には、藤原純友のゆかりの史跡があり、わかりやすく表示されている。


熟田津の候補地として、もう一カ所有力視されている和気地区には、2カ所に歌碑がある。
一つ目は、四国電力の旧和気火力発電所の敷地内、現在は太陽光発電所が置かれているが、その隣接地である。市民の公園として、広く開放されており、広場には親子連れがよく遊びに来ている。
その広場の中程に、あまり目立たない小さな歌碑がある。
おそらく、以前はここには四国電力の保養施設のようなものがあって、その庭園内の碑文としてつくられたものと思われる。
小さな石の表面にモルタルを塗って、その上に文字を書いただけの粗雑なものである。
ひらがな交じりの読み下し文で書かれている。







和気地区での二つ目は、和気公民館の敷地内にある。
一番最近つくられたもので、松山市長の書が使われているが、肩書きだけで名前は入ってない。
現在の中村知事が、松山市長時代に書いたものと思われる。
万葉仮名を、隷書体で、丁寧に書かれているので、文字としては一番整っている印象がある。
ただ、碑の前に不要な枯れ木を置いているなど、あまり丁寧な扱いとは思えない。




印象としては、三津地区では歌碑が大切に扱われている印象があるが、和気地区では、それほどでもないようだ。住民の関心度合いの違いが反映されているのだろう。

2011年10月15日土曜日

交野・枚方・高槻(3) 今城塚古墳

枚方市から高槻市までは、京阪バスが出ている。淀川を越えて約30分くらいである。
JR高槻駅から一駅でJR富田駅がある。ここから今城塚古墳までは、高槻市営のバスが出ている。
ところが、富田駅のバス停は、あちこちに分散されているので分かりにくい。今城塚古墳に行くバス乗り場も、インターネットで事前に調べていた場所とは違っていたので、人に尋ね尋ねて、やっとたどり着いた。駅からも広場からも、少し離れた場所にある。

今城塚古墳の最寄りのバス停も2つほどあるが、「今城塚古墳」で降りると、目の前に資料館がある。

国が作っている資料館だが、かなり立派である。中身の資料も充実しているが、入場料が無料というのも太っ腹なことだ。維持だけでも、かなりの経費がかかると思うのだが。

この資料館からほど近いところに「今城塚古墳」がある。資料館同様にかなり整備されて、まさに公園になっている。この古墳は、継体天皇の陵墓といわれているが、宮内庁が継体天皇の陵墓として指定しているのは、ここからそれほど遠くない茨木市の「太田茶臼山古墳」である。

この古墳の見所は、埴輪にあるだろう。思っていたよりも大きな埴輪が、行列をなすように整然とたくさん並んでいる。もちろん、秦の始皇帝の兵馬俑には太刀打ちできないが、なんとなくその行列を彷彿とさせるところもある。


墳丘部には入れないが、壕の外側は歩道がきれいに整備されているので、ゆっくりと歩けるので、良い公園になっていることだろう。

交野・枚方・高槻(2) 百済王神社・百済寺跡

京阪電車の宮之阪駅から、京阪バス1区間で最寄りのバス停がある。十分歩ける距離だが、駅前からは、それなりの高さがある丘陵を登っていくことになる。


訪れたときは、ちょうど秋の祭礼の日の終わり頃だったらしく、小ぶりの山車に子供たちが乗ってお囃子を奏でていた。父兄たちもたくさん集まって、子供たちとの記念写真に賑やかだった。


新羅・唐連合軍によって百済が滅亡した際、百済国王義慈王の王子禅広は日本に亡命し、その後朝廷に仕えることとなり、百済王氏(くだらのこにきし)という姓を賜り、難波の地に居住した。
陸奥守として赴任していた禅広の曾孫にあたる百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)は、聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で産出した金を献上し、その功により、従三位河内守に任ぜられた。敬福は中宮の地を賜り、氏寺として百済寺、氏神として百済王神社を造営し、一族ともどもこの地に住みついたと考えられている。

おそらく彼らが、七夕行事を日本にもたらした人たちであり、行事の担い手でもあったのだろう。
そもそも「たなばた」と「七夕」は、別物であったらしい。「七夕」は中国の行事で、「たなばた」との違いは、「たなばた」では彦星が織姫の所に通うのに、「七夕」では、織姫が彦星のもとに通うのである。
万葉集の巻十に出ている七夕歌は、いずれも彦星が織姫のもとに通う歌で、織姫が彦星を待つ様子を歌ったものも多い。

秋風の清き夕(ゆふへ)に天の川
舟漕ぎ渡る月人をとこ (万葉集巻10-2044)

万葉集の中には、中国風に織姫が彦星のもとを訪れる様子を歌ったものもある。
大伴家持の歌で

織女(たなばた)し 舟乗りすらし まそ鏡
清き月夜(つくよ)に雲立ち渡る (万葉集巻17-3900)

「織姫が舟を漕ぎだしたらしい。清い月夜に雲が立ち渡っている。」という意味で、織姫が彦星を訪問することが前提の歌である。こうした歌は、一般には、「懐風藻」など、漢詩で七夕を歌った場合は、このパターンだが、万葉集では少数である。

御祭神は百済王(くだらのこにきし)と進雄命(すさのおのみこと、牛頭天王)。
本殿は1828年(文政10年)春日大社古社殿を移築したもの。


百済王神社に隣接して国の特別史跡になっている「百済寺跡」がある。
建物はすべて残っていないが、伽藍にそれぞれあったはずの建物の基壇跡が、きれいに残っている。

金堂と中門が東西の回廊で結ばれ、その囲いの中に東と西の二つの塔を抱えるという配置は、独特のように感じる。
この金堂を始め、東西の塔、中門、南大門、講堂、食堂などの基壇と排水溝が、保存状態よく残っている。

交野・枚方・高槻(1) 機物(はたもの)神社

10月15日に、大阪府の北東部、交野市、枚方市、高槻市に行ってきました。
目当ては二つ。一つは、交野、枚方周辺は、百済からの帰化人が多く住んだところらしく、万葉集でたくさん歌われている七夕歌と七夕行事の発祥地と言われている。
白川静の「後期万葉論」によると、これらの七夕歌は、実際に「たなばた」の行事をおこなう場で歌われたらしい。
その痕跡をたどりたいと言うことだけど、車を持たず、公共交通機関だけ使って訪れるには限界が有って、主なものだけ訪れることができた。

まず、機物(はたもの)神社。七夕の織姫様を祀る神社です。



京阪の交野市駅から、京阪バスで行けば、10分ほど。便数は、多いとは言えないが、そこそこに出ている。
長い参道は、七夕の時は、多くの人と露店で賑わうらしいが、我々が行ったときは、静かなもの。ただ、10月16日が秋の祭礼の日らしく、訪れた15日はちょうど、境内で小さな山車の準備が進んでいるところでした。

参道を終わって、本殿を巡る玉垣の所に、万葉集の七夕歌の石碑があった。

棚機(たなばた)の
五百機(いほはた)立てて織る布の
秋さり衣 誰か取り見む  (万葉集10-2034)

織機(たなばた)をいっぱい並べて、(彦星のために)織る布の、秋の衣は、誰が世話をするのだろう。
年に一度の逢瀬を喜ぶというよりも、残りの会えない日々への愁い、寂しさが出ている歌である。

「後期万葉論」によれば、万葉集には、全部で133首もの七夕歌が収められている。
そのうち、巻十に「秋雑歌」として88首がまとまって載っている。七夕が秋の歌と言うのは、ぴんとこないが、旧暦の7月は秋の初めである。
その歌群のはじめは、人麻呂歌集の38首で、次の詠人未詳歌群の最初の歌が、この神社の石碑に、万葉仮名で刻まれている。

御祭神は、御祭神は天棚機比売大神(あまのたなばたひめ)、栲機千々比売大神(たくはたちぢひめ)、地代主大神(ことしろぬし)、八重事代主大神(やえことしろぬし)の四神である。


天棚機比売大神が、織姫様のことで、日本で唯一、織姫様をお祀りしているとのこと。
栲機千々比売大神は、天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の后神で、天孫降臨をした瓊々杵尊(ににぎのみこと)の母である栲幡千々姫(たくはたちじひめ)のこと。
地代主大神と八重事代主大神は同一の神で、神話では、天孫降臨した神々が出雲で大国主命に国譲りを迫ったとき、大国主命の息子の事代主(ことしろぬし)が、国譲りを承諾したことになっている。

京阪電車を、交野市から枚方市に向かうと、途中で比較的大きな川を渡る。
この川が「天野川」で、七夕の「天の川」にあたる。天野川には縫合橋(あいあいばし)がかかっている。
枚方市の天野川を挟んだ高台に、かつて彦星を祀る「中山観音寺」があったらしい。今はその跡地に「牽牛石」が置かれている。
七夕には、この牽牛と機物神社の織姫が天野川の逢合橋でひとときの逢瀬を楽しんだと伝えられている。

2011年9月25日日曜日

井手神社(2) 上善如水

井手神社の鳥居前にある注連石には、本殿に向かって右に「上善」、向かって左に「如水」とある。
「上善如水」。
この言葉は老子の言葉で、理想的な生き方「上善」は、「水の如し」なのだということ。 
相手の器しだいで、いかようにも形を変えていく柔軟性と、つねに低い所へと流れていく謙虚さを持てと言うことらしい。 


注連石に書いたのは、三輪田米山。立派な言葉だが、米山がこの言葉を選んだのは、おそらく、この神社と水との関わりが深いことを知っていたからだろう。
この神社に雨を降らせる力があるとか、すいなんをふせぐちからがあるとか、というのではない。そんな力は、八大竜王や金比羅さんにお任せした方が良さそうだ。

井手神社と水との関わりは、石手川の改修に関係している。
この神社の創建は、橘諸兄の孫に当たる橘清友(758年~789年)が、伊予国司の時に、今の場所よりも石手川を挟んだ対岸、現在、若宮神社があるあたりに、作られたことに始まるようだ。

それが、16世紀の末頃に、暴れ川である重信川を治水するために、足立重信が関連する石手川の改修を行った際に、左岸から現在の右岸の場所に移されたらしい。

重信川に名を残す足立重信であるが、彼をもってしても、石手川の完全な制水は難しかったようで、改修に際して、お城がある右岸側は堅固な護岸を築くが、南に当たる左岸側の護岸は弱く作って、いざというときは左岸側に氾濫を起こすことで、北側にあるお城の周囲に水が出ることを防ぐという方法をとらざるを得なかった。
井手神社は、おそらく当時の為政者にも重視されていたので、安全な右岸側に移されたものと思料される。

現在では、そのような護岸に強弱をつけることはしてない。それでも大雨が降ると、石手川の南側は水はけが悪く、現在のジョープラのあたりの低地には、住宅に浸水することがある。
これは、すぐ南を流れる小野川の河床が高く、北側の低地の水がはけないことに起因する。かといって小野川の河床を下げると、その先の石手川や重信川本流との合流によって、重信川の水が小野川に逆流を起こして、さらにひどい水害につながりかねない。要するに、地形的制約で、これと言った抜本的な改修策が難しいところである。

石手川は、その後、亨保6年(1721)に氾濫を起こしており、それを受けて、亨保8年(1723)に西条浪人大川文蔵が大改修を行っている。
足立重信は、川幅を広く河床を浅く改修したが、大川文蔵は、川幅を狭めて、河底を深くし、併せて河芯に直線に突出する水制工(曲げ出し)を採用したようだ。

亨保6年の氾濫では、72人の男女が亡くなったようで、その霊を慰めるために、柳井町商店街を出たすぐにある小公園内にお地蔵さんが祀られた。
このお地蔵さんは、松山大空襲に遭って、現在では、目鼻もはっきりしないが、安産と長寿の延命地蔵尊として、今でも地域の人に大事に祀られている。

井手神社(1) 橘諸兄

井手神社は、松山市の立花にある小さな神社。石手川の右岸に位置する。
「松山の天神さん」とも言われ、夏の祭礼は、「鍾馗祭り」「お日切りさん」とともに、松山の三大夏祭りと言われるほど賑やかだが、天満宮は、境内社の一つに過ぎず、しかも金刀比羅宮、厳島神社との3社相殿である。
主祭神は、
大山祇神(おおやまづみのかみ)
木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)
橘諸兄(たちばなのもろえ、橘氏の祖で、正一位の位階を生前叙位する)
橘嘉智子(たちばなのかちこ、檀林皇后(だんりんこうごう)、
橘清友の子で嵯峨天皇の皇后)
橘清友(たちばなのきよとも、橘諸兄の孫)
5柱だが、神社名からして、橘諸兄が一番重要視されているものと思われる。

ちなみに、橘諸兄は、奈良時代の政治家で、元の名前を葛城王(葛木王・かつらぎのおおきみ)。
正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。
神社名は、この井手左大臣から来ていると思われる。
また、橘諸兄が生前に正一位を受けていたことから、この井手神社も正一位を名のっている。
もしかすると、このあたりの地名である「立花」も橘諸兄からかも???

橘諸兄は、藤原の4兄弟が相次いで伝染病で死んでしまったために、一躍朝廷の中心に躍り出た、ある意味でラッキーな人物。大伴家持とともに「万葉集」の選者とも言われる文化人でもある。

井手左大臣と言われたのは、現在の京都府綴喜郡井手町に山荘を持っていたから。
この山荘に山吹の花が植えられたことから、以後、山吹の名所とされた。

「山吹の花の盛りにかくのごと君を見まくは千年にもがも」 (家持「万葉集20-4304」)

上の歌は、橘諸兄を讃える歌だが、説明書きでは、この歌を披露しないうちに橘諸兄が宴席を立ってしまったので、読まないで終わったとか。

古今集以降、井手は歌枕となり、山吹と取り合わせて、たくさん詠まれている。

「かはづ鳴く井手の山吹散りにけり花の盛りにあはましものを」 (読人不知「古今」)
「色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手のわたりの山吹の花」 (小町集)
「春ふかみ井手の川波たちかへり見てこそゆかめ山吹の花」(源順「拾遺」)

「駒とめてなほ水かはん山吹の花の露そふ井手の玉川」(俊成「新古今」)
「山しろの井手の玉川水清みさやにうつろふ山吹のはな」(田安宗武)

井手神社の境内には、松山市指定天然記念物である「 にっぽんたちばな」1本がある。
樹高が7mもあり、にっぽんたちばなとしては大きな木。
京都御所紫宸殿の「右近の橘」にあやかって、境内には多くのたちばなが植えられている。
でも、歌心があれば、山吹を植えたのかもしれない。



境内には、河野通有の、比較的新しい石像がある。
通有は、鎌倉時代の元寇の時に、防御の土塁を背中にして蒙古軍と対峙し、「河野の後築地」として名をはせた。河野水軍を率いて、元軍の船を襲撃し、本人も負傷するが、元軍の将を討ち取る功績を挙げた。この元寇の時の奮戦で、逼塞していた河野家を再興した。

ここに河野通有の石像が置かれているのは、御祭神が大山祇神であるため。
河野家は代々大山祇神社を崇敬している。



2011年8月6日土曜日

根岸、子規の里(5) 「正岡常規又ノ名ハ・・・月給四十圓」

子規のお墓は、山手線鶯谷駅から3つ先の田端駅に近い、大龍寺にある。
地図で見ると、田端駅から大龍寺まで、それほど遠くはない。ただ、田端駅は、
武蔵野台地の下、大龍寺は台地上である。田端駅から降りると、いきなり
10メートルを超える高さの階段登りを覚悟しないといけない。

大龍寺は真言宗の寺。門前には、子規居士の墓がある旨の石柱が
立っている。




本堂に左側を抜けると墓地に出る。さらにその墓地の左側、中程に子規のお墓がある。

真ん中に子規の墓、右側には母八重の墓、左側は先祖累代の墓である。八重もこちらに
入っているのだろうか。後ろには、「竹ノ里人」とも号したゆえか、竹がこんもりと茂っている。
墓地の左には、平成19年に作られた、子規の自筆の墓碑銘。
「月給四十円」とは、亡くなる(明治35年1902)直前にもらっていた額だろうか。 「日本」に入社したとき(明治25年1892)は、確か「月給十五円」だった。
亡くなった明治35年9月19日も、享年36も、記入しなままの墓碑銘だ。






根岸、子規の里(4) 「ごてごてと草花植えし小庭かな」

子規が根岸に住んだのは、明治25年2月、旧加賀藩前田家の長屋の一つに移ったの
が最初。日本新聞社、陸羯南の家の西隣だった。


6月に 東京帝国大学文科大学哲学科の学年試験に落第して、10月に退学。
11月に母八重と妹の律を呼び寄せ、12月に、この日本新聞社に入社。

子規が根岸に移った年は、子規にとって、大きな転機になった年だ。

2年後には、数十メートル東、陸羯南の家の東隣、今の子規庵の場所に引越して、
明治35年に亡くなるまで、ここを拠点に、俳句及び短歌の革新運動を展開する。


子規の家は、関東大震災には残ったが、空襲では、子規の没後に立てた土蔵
(子規文庫)を除いて全焼。隣に住んでいた寒川鼠骨が中心となって、昭和26年に再建した。



財団法人子規保存会が管理運営をしており、入館料は500円。
12時から1時の間は昼休みで閉まっている。
建物内の撮影は禁止。
以前は、庭も撮影が禁止されていただが、今はOKに。
運営は、財政的にはなかなか大変だろうから、館内で売っている写真を買ってあげて
ください。



子規が寝ていた6畳間のほかには、みんなが集まっていた8畳間、ほかには玄関の左には、
狭い次の間、右側には3畳の間と台所。
句会などは8畳の間で開かれたが、とても狭いです。俳句は短歌の革新に燃える若者たちが集まれば、それだけで、熱気のためかなり暑かったのではないだろうか。

6畳間の庭には、ヘチマ棚。


窓から見える庭の光景は、草ぼうぼうに近い感じ。子規自身、「ごてごてと草花植えし小庭かな」と読んでいるくらい。



庭には、子規の絶筆3句の比較的新しい句碑が作られていた。
「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
「をととひのへちまの水も取らざりき」

空襲でも焼け残った土蔵は、表面をトタンで覆っているが、なおも健在でした。
この土蔵の中に、子規関係の資料がたくさん残っていたので、子規庵の再建に
つながったのだそうだ。