2011年の11月に訪れたときは、ちょうど七五三の時期だったらしく、着飾った子供連れが次々に訪れて賑わっていた。
また、将門の首塚というものが全国各地に伝えられており、中でも、都心の大手町が有名である。
これまでも何度か整地しようと試みられたが、その都度祟りがあったととされている。その経緯は、「妄想かもしれない日本の歴史」(井上章一、角川選書)のいの一番にも詳しく採り上げられている。さすがに塚はなくなっているが、それでも日本を代表する一流企業の本社が建ち並ぶ中で、今も独特のオーラを漂わせている。
たくさんの花が添えられているところを見るとので、きっとお参りが絶えないのだろう。
藤原純友は、将門と同時期の10世紀半ばに、瀬戸内海の海賊衆を糾合して反乱を起こし、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)と一緒に呼ばれることが多い。
ただ、将門が、神田明神や各地の首塚など、伝説と史跡に事欠かないのく比べると、純友の場合は、驚くほど、そういった伝説や史跡が残っていない。
私が最近見つけたのが、松山市の西部にある久万ノ台の西の外れ、市営の明神墓地の一角で、「藤原純友の館跡」なる石柱である。
高台の端にあって、足下には町並みが海まで続いて、たいへん見晴らしが良い。
昔は、海岸線が現在よりも、かなり内陸に入っていたとも言われるので、久万の台の足下に渚があったとすると、この館跡は港のすぐ上の高台という絶好のロケーションかもしれない。
この館跡から、下に降りる狭い道がついていて、下には久枝神社という、神主無住の小さな神社がある。この神社にも純友の史跡がいくつかある。純友の駒立岩が一番の中心だ。
そのほかにも、「駒つなぎの松」の跡や、純友が使ったと言われる井戸の跡もある。
史跡の石柱が、いずれも新しいので、最近になって改修されたものか、新たに建てられたものだろう。地元の史跡保存会が、活発に活動しているものと思われる。
こうした取り組みは、史跡らしいものが乏しい純友関連のものとして、きわめて貴重である。
ただ、純友は従七位下伊予掾として、伊予国府の中では、国司に次ぐ第2位か3位の幹部であったが、平安時代の国府が今治に置かれていたことを考えると、本来なら純友の館跡は、今治にあるべきと思うのだが、どうだろう。