訪れたときは、ちょうど秋の祭礼の日の終わり頃だったらしく、小ぶりの山車に子供たちが乗ってお囃子を奏でていた。父兄たちもたくさん集まって、子供たちとの記念写真に賑やかだった。
新羅・唐連合軍によって百済が滅亡した際、百済国王義慈王の王子禅広は日本に亡命し、その後朝廷に仕えることとなり、百済王氏(くだらのこにきし)という姓を賜り、難波の地に居住した。
陸奥守として赴任していた禅広の曾孫にあたる百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)は、聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で産出した金を献上し、その功により、従三位河内守に任ぜられた。敬福は中宮の地を賜り、氏寺として百済寺、氏神として百済王神社を造営し、一族ともどもこの地に住みついたと考えられている。
おそらく彼らが、七夕行事を日本にもたらした人たちであり、行事の担い手でもあったのだろう。
そもそも「たなばた」と「七夕」は、別物であったらしい。「七夕」は中国の行事で、「たなばた」との違いは、「たなばた」では彦星が織姫の所に通うのに、「七夕」では、織姫が彦星のもとに通うのである。
万葉集の巻十に出ている七夕歌は、いずれも彦星が織姫のもとに通う歌で、織姫が彦星を待つ様子を歌ったものも多い。
秋風の清き夕(ゆふへ)に天の川
舟漕ぎ渡る月人をとこ (万葉集巻10-2044)
万葉集の中には、中国風に織姫が彦星のもとを訪れる様子を歌ったものもある。
大伴家持の歌で
織女(たなばた)し 舟乗りすらし まそ鏡
清き月夜(つくよ)に雲立ち渡る (万葉集巻17-3900)
「織姫が舟を漕ぎだしたらしい。清い月夜に雲が立ち渡っている。」という意味で、織姫が彦星を訪問することが前提の歌である。こうした歌は、一般には、「懐風藻」など、漢詩で七夕を歌った場合は、このパターンだが、万葉集では少数である。
御祭神は百済王(くだらのこにきし)と進雄命(すさのおのみこと、牛頭天王)。
本殿は1828年(文政10年)春日大社古社殿を移築したもの。
百済王神社に隣接して国の特別史跡になっている「百済寺跡」がある。
建物はすべて残っていないが、伽藍にそれぞれあったはずの建物の基壇跡が、きれいに残っている。
金堂と中門が東西の回廊で結ばれ、その囲いの中に東と西の二つの塔を抱えるという配置は、独特のように感じる。
この金堂を始め、東西の塔、中門、南大門、講堂、食堂などの基壇と排水溝が、保存状態よく残っている。
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