が最初。日本新聞社、陸羯南の家の西隣だった。
6月に 東京帝国大学文科大学哲学科の学年試験に落第して、10月に退学。
11月に母八重と妹の律を呼び寄せ、12月に、この日本新聞社に入社。
子規が根岸に移った年は、子規にとって、大きな転機になった年だ。
2年後には、数十メートル東、陸羯南の家の東隣、今の子規庵の場所に引越して、
明治35年に亡くなるまで、ここを拠点に、俳句及び短歌の革新運動を展開する。
(子規文庫)を除いて全焼。隣に住んでいた寒川鼠骨が中心となって、昭和26年に再建した。
財団法人子規保存会が管理運営をしており、入館料は500円。
12時から1時の間は昼休みで閉まっている。
建物内の撮影は禁止。
以前は、庭も撮影が禁止されていただが、今はOKに。
運営は、財政的にはなかなか大変だろうから、館内で売っている写真を買ってあげて
ください。
子規が寝ていた6畳間のほかには、みんなが集まっていた8畳間、ほかには玄関の左には、
狭い次の間、右側には3畳の間と台所。
句会などは8畳の間で開かれたが、とても狭いです。俳句は短歌の革新に燃える若者たちが集まれば、それだけで、熱気のためかなり暑かったのではないだろうか。
6畳間の庭には、ヘチマ棚。
窓から見える庭の光景は、草ぼうぼうに近い感じ。子規自身、「ごてごてと草花植えし小庭かな」と読んでいるくらい。
庭には、子規の絶筆3句の比較的新しい句碑が作られていた。
「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
「をととひのへちまの水も取らざりき」
この土蔵の中に、子規関係の資料がたくさん残っていたので、子規庵の再建に
つながったのだそうだ。
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