2011年9月25日日曜日

井手神社(1) 橘諸兄

井手神社は、松山市の立花にある小さな神社。石手川の右岸に位置する。
「松山の天神さん」とも言われ、夏の祭礼は、「鍾馗祭り」「お日切りさん」とともに、松山の三大夏祭りと言われるほど賑やかだが、天満宮は、境内社の一つに過ぎず、しかも金刀比羅宮、厳島神社との3社相殿である。
主祭神は、
大山祇神(おおやまづみのかみ)
木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)
橘諸兄(たちばなのもろえ、橘氏の祖で、正一位の位階を生前叙位する)
橘嘉智子(たちばなのかちこ、檀林皇后(だんりんこうごう)、
橘清友の子で嵯峨天皇の皇后)
橘清友(たちばなのきよとも、橘諸兄の孫)
5柱だが、神社名からして、橘諸兄が一番重要視されているものと思われる。

ちなみに、橘諸兄は、奈良時代の政治家で、元の名前を葛城王(葛木王・かつらぎのおおきみ)。
正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。
神社名は、この井手左大臣から来ていると思われる。
また、橘諸兄が生前に正一位を受けていたことから、この井手神社も正一位を名のっている。
もしかすると、このあたりの地名である「立花」も橘諸兄からかも???

橘諸兄は、藤原の4兄弟が相次いで伝染病で死んでしまったために、一躍朝廷の中心に躍り出た、ある意味でラッキーな人物。大伴家持とともに「万葉集」の選者とも言われる文化人でもある。

井手左大臣と言われたのは、現在の京都府綴喜郡井手町に山荘を持っていたから。
この山荘に山吹の花が植えられたことから、以後、山吹の名所とされた。

「山吹の花の盛りにかくのごと君を見まくは千年にもがも」 (家持「万葉集20-4304」)

上の歌は、橘諸兄を讃える歌だが、説明書きでは、この歌を披露しないうちに橘諸兄が宴席を立ってしまったので、読まないで終わったとか。

古今集以降、井手は歌枕となり、山吹と取り合わせて、たくさん詠まれている。

「かはづ鳴く井手の山吹散りにけり花の盛りにあはましものを」 (読人不知「古今」)
「色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手のわたりの山吹の花」 (小町集)
「春ふかみ井手の川波たちかへり見てこそゆかめ山吹の花」(源順「拾遺」)

「駒とめてなほ水かはん山吹の花の露そふ井手の玉川」(俊成「新古今」)
「山しろの井手の玉川水清みさやにうつろふ山吹のはな」(田安宗武)

井手神社の境内には、松山市指定天然記念物である「 にっぽんたちばな」1本がある。
樹高が7mもあり、にっぽんたちばなとしては大きな木。
京都御所紫宸殿の「右近の橘」にあやかって、境内には多くのたちばなが植えられている。
でも、歌心があれば、山吹を植えたのかもしれない。



境内には、河野通有の、比較的新しい石像がある。
通有は、鎌倉時代の元寇の時に、防御の土塁を背中にして蒙古軍と対峙し、「河野の後築地」として名をはせた。河野水軍を率いて、元軍の船を襲撃し、本人も負傷するが、元軍の将を討ち取る功績を挙げた。この元寇の時の奮戦で、逼塞していた河野家を再興した。

ここに河野通有の石像が置かれているのは、御祭神が大山祇神であるため。
河野家は代々大山祇神社を崇敬している。



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