畑寺にある淡路ケ峠(あわじがとう)に登ってみた。
標高275m位だから、ふもとから登っても30分ほどで登ってしまう。登り道は勾配が強くて、それなりにしんどかったが、最近、ハイキングコースとして整備されているので、一応の整備はなされている。
昔、河野氏が築いた湯築城の出城として砦が置かれていた。高さはないが、思っていた以上に、パノラマ的な眺望が素晴らしい。
北は高縄山、湯山ヒルズ、白水台なども見える。正面は松山平野が一望できて、遠くは興居島や中島が見える。南は、高知方面への33号線を越えて、さらに南の鷹ノ子あたりまで見える。周りの木をもう少し切れば、もっと東まで見えるかも知れない。
ここに砦を置いていれば、松山平野に進入してくる敵は、どの方向から入ってきても、天気さえ良ければ一望の下に見えるだろう。山の高さもそれほど高くないので、麓との連絡も取りやすい。
まさに理想的な観測所になることだろう。
山頂の展望台に設置されていた説明版を読むと、ここの城主は、河野道直の家臣林淡路守通起(みちおき)と言うらしい。
河野氏は、秀吉の四国征伐に降参して、広島の小早川に預けられる形で竹原に移り、そこで河野氏は跡継ぎがなく途絶えたが、林淡路守の子孫はその後も続き、関ヶ原での毛利氏が防長2国に削られたときは、山口に移り住んだようだ。
その後、通起から11台あとに伊藤博文が出てくることになるが、博文自身、明治42年に来県したとき、道後の歓迎会で、「余の祖先は伊予河野氏の末流、林淡
路守通起なり。明年は通起の三百回忌の法要を営む心算なり」]と演説したそうだから、自身が林淡路守の末裔であることは、十分意識していたようだ。
もっとも、7カ月後の10月26日、ハルビン駅頭で射殺されたので、法要を営むこちにはならなかったが。
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