2011年10月15日土曜日

交野・枚方・高槻(3) 今城塚古墳

枚方市から高槻市までは、京阪バスが出ている。淀川を越えて約30分くらいである。
JR高槻駅から一駅でJR富田駅がある。ここから今城塚古墳までは、高槻市営のバスが出ている。
ところが、富田駅のバス停は、あちこちに分散されているので分かりにくい。今城塚古墳に行くバス乗り場も、インターネットで事前に調べていた場所とは違っていたので、人に尋ね尋ねて、やっとたどり着いた。駅からも広場からも、少し離れた場所にある。

今城塚古墳の最寄りのバス停も2つほどあるが、「今城塚古墳」で降りると、目の前に資料館がある。

国が作っている資料館だが、かなり立派である。中身の資料も充実しているが、入場料が無料というのも太っ腹なことだ。維持だけでも、かなりの経費がかかると思うのだが。

この資料館からほど近いところに「今城塚古墳」がある。資料館同様にかなり整備されて、まさに公園になっている。この古墳は、継体天皇の陵墓といわれているが、宮内庁が継体天皇の陵墓として指定しているのは、ここからそれほど遠くない茨木市の「太田茶臼山古墳」である。

この古墳の見所は、埴輪にあるだろう。思っていたよりも大きな埴輪が、行列をなすように整然とたくさん並んでいる。もちろん、秦の始皇帝の兵馬俑には太刀打ちできないが、なんとなくその行列を彷彿とさせるところもある。


墳丘部には入れないが、壕の外側は歩道がきれいに整備されているので、ゆっくりと歩けるので、良い公園になっていることだろう。

交野・枚方・高槻(2) 百済王神社・百済寺跡

京阪電車の宮之阪駅から、京阪バス1区間で最寄りのバス停がある。十分歩ける距離だが、駅前からは、それなりの高さがある丘陵を登っていくことになる。


訪れたときは、ちょうど秋の祭礼の日の終わり頃だったらしく、小ぶりの山車に子供たちが乗ってお囃子を奏でていた。父兄たちもたくさん集まって、子供たちとの記念写真に賑やかだった。


新羅・唐連合軍によって百済が滅亡した際、百済国王義慈王の王子禅広は日本に亡命し、その後朝廷に仕えることとなり、百済王氏(くだらのこにきし)という姓を賜り、難波の地に居住した。
陸奥守として赴任していた禅広の曾孫にあたる百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)は、聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で産出した金を献上し、その功により、従三位河内守に任ぜられた。敬福は中宮の地を賜り、氏寺として百済寺、氏神として百済王神社を造営し、一族ともどもこの地に住みついたと考えられている。

おそらく彼らが、七夕行事を日本にもたらした人たちであり、行事の担い手でもあったのだろう。
そもそも「たなばた」と「七夕」は、別物であったらしい。「七夕」は中国の行事で、「たなばた」との違いは、「たなばた」では彦星が織姫の所に通うのに、「七夕」では、織姫が彦星のもとに通うのである。
万葉集の巻十に出ている七夕歌は、いずれも彦星が織姫のもとに通う歌で、織姫が彦星を待つ様子を歌ったものも多い。

秋風の清き夕(ゆふへ)に天の川
舟漕ぎ渡る月人をとこ (万葉集巻10-2044)

万葉集の中には、中国風に織姫が彦星のもとを訪れる様子を歌ったものもある。
大伴家持の歌で

織女(たなばた)し 舟乗りすらし まそ鏡
清き月夜(つくよ)に雲立ち渡る (万葉集巻17-3900)

「織姫が舟を漕ぎだしたらしい。清い月夜に雲が立ち渡っている。」という意味で、織姫が彦星を訪問することが前提の歌である。こうした歌は、一般には、「懐風藻」など、漢詩で七夕を歌った場合は、このパターンだが、万葉集では少数である。

御祭神は百済王(くだらのこにきし)と進雄命(すさのおのみこと、牛頭天王)。
本殿は1828年(文政10年)春日大社古社殿を移築したもの。


百済王神社に隣接して国の特別史跡になっている「百済寺跡」がある。
建物はすべて残っていないが、伽藍にそれぞれあったはずの建物の基壇跡が、きれいに残っている。

金堂と中門が東西の回廊で結ばれ、その囲いの中に東と西の二つの塔を抱えるという配置は、独特のように感じる。
この金堂を始め、東西の塔、中門、南大門、講堂、食堂などの基壇と排水溝が、保存状態よく残っている。

交野・枚方・高槻(1) 機物(はたもの)神社

10月15日に、大阪府の北東部、交野市、枚方市、高槻市に行ってきました。
目当ては二つ。一つは、交野、枚方周辺は、百済からの帰化人が多く住んだところらしく、万葉集でたくさん歌われている七夕歌と七夕行事の発祥地と言われている。
白川静の「後期万葉論」によると、これらの七夕歌は、実際に「たなばた」の行事をおこなう場で歌われたらしい。
その痕跡をたどりたいと言うことだけど、車を持たず、公共交通機関だけ使って訪れるには限界が有って、主なものだけ訪れることができた。

まず、機物(はたもの)神社。七夕の織姫様を祀る神社です。



京阪の交野市駅から、京阪バスで行けば、10分ほど。便数は、多いとは言えないが、そこそこに出ている。
長い参道は、七夕の時は、多くの人と露店で賑わうらしいが、我々が行ったときは、静かなもの。ただ、10月16日が秋の祭礼の日らしく、訪れた15日はちょうど、境内で小さな山車の準備が進んでいるところでした。

参道を終わって、本殿を巡る玉垣の所に、万葉集の七夕歌の石碑があった。

棚機(たなばた)の
五百機(いほはた)立てて織る布の
秋さり衣 誰か取り見む  (万葉集10-2034)

織機(たなばた)をいっぱい並べて、(彦星のために)織る布の、秋の衣は、誰が世話をするのだろう。
年に一度の逢瀬を喜ぶというよりも、残りの会えない日々への愁い、寂しさが出ている歌である。

「後期万葉論」によれば、万葉集には、全部で133首もの七夕歌が収められている。
そのうち、巻十に「秋雑歌」として88首がまとまって載っている。七夕が秋の歌と言うのは、ぴんとこないが、旧暦の7月は秋の初めである。
その歌群のはじめは、人麻呂歌集の38首で、次の詠人未詳歌群の最初の歌が、この神社の石碑に、万葉仮名で刻まれている。

御祭神は、御祭神は天棚機比売大神(あまのたなばたひめ)、栲機千々比売大神(たくはたちぢひめ)、地代主大神(ことしろぬし)、八重事代主大神(やえことしろぬし)の四神である。


天棚機比売大神が、織姫様のことで、日本で唯一、織姫様をお祀りしているとのこと。
栲機千々比売大神は、天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の后神で、天孫降臨をした瓊々杵尊(ににぎのみこと)の母である栲幡千々姫(たくはたちじひめ)のこと。
地代主大神と八重事代主大神は同一の神で、神話では、天孫降臨した神々が出雲で大国主命に国譲りを迫ったとき、大国主命の息子の事代主(ことしろぬし)が、国譲りを承諾したことになっている。

京阪電車を、交野市から枚方市に向かうと、途中で比較的大きな川を渡る。
この川が「天野川」で、七夕の「天の川」にあたる。天野川には縫合橋(あいあいばし)がかかっている。
枚方市の天野川を挟んだ高台に、かつて彦星を祀る「中山観音寺」があったらしい。今はその跡地に「牽牛石」が置かれている。
七夕には、この牽牛と機物神社の織姫が天野川の逢合橋でひとときの逢瀬を楽しんだと伝えられている。