2011年9月25日日曜日

井手神社(2) 上善如水

井手神社の鳥居前にある注連石には、本殿に向かって右に「上善」、向かって左に「如水」とある。
「上善如水」。
この言葉は老子の言葉で、理想的な生き方「上善」は、「水の如し」なのだということ。 
相手の器しだいで、いかようにも形を変えていく柔軟性と、つねに低い所へと流れていく謙虚さを持てと言うことらしい。 


注連石に書いたのは、三輪田米山。立派な言葉だが、米山がこの言葉を選んだのは、おそらく、この神社と水との関わりが深いことを知っていたからだろう。
この神社に雨を降らせる力があるとか、すいなんをふせぐちからがあるとか、というのではない。そんな力は、八大竜王や金比羅さんにお任せした方が良さそうだ。

井手神社と水との関わりは、石手川の改修に関係している。
この神社の創建は、橘諸兄の孫に当たる橘清友(758年~789年)が、伊予国司の時に、今の場所よりも石手川を挟んだ対岸、現在、若宮神社があるあたりに、作られたことに始まるようだ。

それが、16世紀の末頃に、暴れ川である重信川を治水するために、足立重信が関連する石手川の改修を行った際に、左岸から現在の右岸の場所に移されたらしい。

重信川に名を残す足立重信であるが、彼をもってしても、石手川の完全な制水は難しかったようで、改修に際して、お城がある右岸側は堅固な護岸を築くが、南に当たる左岸側の護岸は弱く作って、いざというときは左岸側に氾濫を起こすことで、北側にあるお城の周囲に水が出ることを防ぐという方法をとらざるを得なかった。
井手神社は、おそらく当時の為政者にも重視されていたので、安全な右岸側に移されたものと思料される。

現在では、そのような護岸に強弱をつけることはしてない。それでも大雨が降ると、石手川の南側は水はけが悪く、現在のジョープラのあたりの低地には、住宅に浸水することがある。
これは、すぐ南を流れる小野川の河床が高く、北側の低地の水がはけないことに起因する。かといって小野川の河床を下げると、その先の石手川や重信川本流との合流によって、重信川の水が小野川に逆流を起こして、さらにひどい水害につながりかねない。要するに、地形的制約で、これと言った抜本的な改修策が難しいところである。

石手川は、その後、亨保6年(1721)に氾濫を起こしており、それを受けて、亨保8年(1723)に西条浪人大川文蔵が大改修を行っている。
足立重信は、川幅を広く河床を浅く改修したが、大川文蔵は、川幅を狭めて、河底を深くし、併せて河芯に直線に突出する水制工(曲げ出し)を採用したようだ。

亨保6年の氾濫では、72人の男女が亡くなったようで、その霊を慰めるために、柳井町商店街を出たすぐにある小公園内にお地蔵さんが祀られた。
このお地蔵さんは、松山大空襲に遭って、現在では、目鼻もはっきりしないが、安産と長寿の延命地蔵尊として、今でも地域の人に大事に祀られている。

井手神社(1) 橘諸兄

井手神社は、松山市の立花にある小さな神社。石手川の右岸に位置する。
「松山の天神さん」とも言われ、夏の祭礼は、「鍾馗祭り」「お日切りさん」とともに、松山の三大夏祭りと言われるほど賑やかだが、天満宮は、境内社の一つに過ぎず、しかも金刀比羅宮、厳島神社との3社相殿である。
主祭神は、
大山祇神(おおやまづみのかみ)
木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)
橘諸兄(たちばなのもろえ、橘氏の祖で、正一位の位階を生前叙位する)
橘嘉智子(たちばなのかちこ、檀林皇后(だんりんこうごう)、
橘清友の子で嵯峨天皇の皇后)
橘清友(たちばなのきよとも、橘諸兄の孫)
5柱だが、神社名からして、橘諸兄が一番重要視されているものと思われる。

ちなみに、橘諸兄は、奈良時代の政治家で、元の名前を葛城王(葛木王・かつらぎのおおきみ)。
正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。
神社名は、この井手左大臣から来ていると思われる。
また、橘諸兄が生前に正一位を受けていたことから、この井手神社も正一位を名のっている。
もしかすると、このあたりの地名である「立花」も橘諸兄からかも???

橘諸兄は、藤原の4兄弟が相次いで伝染病で死んでしまったために、一躍朝廷の中心に躍り出た、ある意味でラッキーな人物。大伴家持とともに「万葉集」の選者とも言われる文化人でもある。

井手左大臣と言われたのは、現在の京都府綴喜郡井手町に山荘を持っていたから。
この山荘に山吹の花が植えられたことから、以後、山吹の名所とされた。

「山吹の花の盛りにかくのごと君を見まくは千年にもがも」 (家持「万葉集20-4304」)

上の歌は、橘諸兄を讃える歌だが、説明書きでは、この歌を披露しないうちに橘諸兄が宴席を立ってしまったので、読まないで終わったとか。

古今集以降、井手は歌枕となり、山吹と取り合わせて、たくさん詠まれている。

「かはづ鳴く井手の山吹散りにけり花の盛りにあはましものを」 (読人不知「古今」)
「色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手のわたりの山吹の花」 (小町集)
「春ふかみ井手の川波たちかへり見てこそゆかめ山吹の花」(源順「拾遺」)

「駒とめてなほ水かはん山吹の花の露そふ井手の玉川」(俊成「新古今」)
「山しろの井手の玉川水清みさやにうつろふ山吹のはな」(田安宗武)

井手神社の境内には、松山市指定天然記念物である「 にっぽんたちばな」1本がある。
樹高が7mもあり、にっぽんたちばなとしては大きな木。
京都御所紫宸殿の「右近の橘」にあやかって、境内には多くのたちばなが植えられている。
でも、歌心があれば、山吹を植えたのかもしれない。



境内には、河野通有の、比較的新しい石像がある。
通有は、鎌倉時代の元寇の時に、防御の土塁を背中にして蒙古軍と対峙し、「河野の後築地」として名をはせた。河野水軍を率いて、元軍の船を襲撃し、本人も負傷するが、元軍の将を討ち取る功績を挙げた。この元寇の時の奮戦で、逼塞していた河野家を再興した。

ここに河野通有の石像が置かれているのは、御祭神が大山祇神であるため。
河野家は代々大山祇神社を崇敬している。