「上善如水」。
この言葉は老子の言葉で、理想的な生き方「上善」は、「水の如し」なのだということ。
相手の器しだいで、いかようにも形を変えていく柔軟性と、つねに低い所へと流れていく謙虚さを持てと言うことらしい。
注連石に書いたのは、三輪田米山。立派な言葉だが、米山がこの言葉を選んだのは、おそらく、この神社と水との関わりが深いことを知っていたからだろう。
この神社に雨を降らせる力があるとか、すいなんをふせぐちからがあるとか、というのではない。そんな力は、八大竜王や金比羅さんにお任せした方が良さそうだ。
井手神社と水との関わりは、石手川の改修に関係している。
この神社の創建は、橘諸兄の孫に当たる橘清友(758年~789年)が、伊予国司の時に、今の場所よりも石手川を挟んだ対岸、現在、若宮神社があるあたりに、作られたことに始まるようだ。
それが、16世紀の末頃に、暴れ川である重信川を治水するために、足立重信が関連する石手川の改修を行った際に、左岸から現在の右岸の場所に移されたらしい。
重信川に名を残す足立重信であるが、彼をもってしても、石手川の完全な制水は難しかったようで、改修に際して、お城がある右岸側は堅固な護岸を築くが、南に当たる左岸側の護岸は弱く作って、いざというときは左岸側に氾濫を起こすことで、北側にあるお城の周囲に水が出ることを防ぐという方法をとらざるを得なかった。
井手神社は、おそらく当時の為政者にも重視されていたので、安全な右岸側に移されたものと思料される。
現在では、そのような護岸に強弱をつけることはしてない。それでも大雨が降ると、石手川の南側は水はけが悪く、現在のジョープラのあたりの低地には、住宅に浸水することがある。
これは、すぐ南を流れる小野川の河床が高く、北側の低地の水がはけないことに起因する。かといって小野川の河床を下げると、その先の石手川や重信川本流との合流によって、重信川の水が小野川に逆流を起こして、さらにひどい水害につながりかねない。要するに、地形的制約で、これと言った抜本的な改修策が難しいところである。
石手川は、その後、亨保6年(1721)に氾濫を起こしており、それを受けて、亨保8年(1723)に西条浪人大川文蔵が大改修を行っている。
足立重信は、川幅を広く河床を浅く改修したが、大川文蔵は、川幅を狭めて、河底を深くし、併せて河芯に直線に突出する水制工(曲げ出し)を採用したようだ。
亨保6年の氾濫では、72人の男女が亡くなったようで、その霊を慰めるために、柳井町商店街を出たすぐにある小公園内にお地蔵さんが祀られた。
このお地蔵さんは、松山大空襲に遭って、現在では、目鼻もはっきりしないが、安産と長寿の延命地蔵尊として、今でも地域の人に大事に祀られている。