水野広徳(1875~1945)は、松山市三津浜の出身。
松山中学に2回も入学したという変わり種。1回目は卒業試験に不合格となり、そのまま退学。ところが、行きたかった江田島の海軍兵学校を受験するには学力不足であることに気づいて、再度入学。
海軍兵学校には、正規の試験は落ちたが、たまたま海軍の増強期で、追加募集があったので、やっと入学できた。
海軍には、同じ松山中学校を出た秋山真之(1865~1918)がいた。彼はいうまでもなく、日露戦争(1904~1905)の連合艦隊作戦参謀として、日本海海戦大勝利の立役者となる。
水野も、当時は30歳の若手大尉。水雷艇の艇長として、旅順港の封鎖作戦や日本海海戦に参加した。
日本海海戦では、戦艦など主力艦による砲撃戦ばかりが強調されるが、夜になって砲撃戦が終了した後、駆逐艦や水雷艇など小型艦が魚雷などを武器に執拗な攻撃を行ったことが戦果を拡大したといわれる。
水野は日露戦争後、戦史編纂に携わったことから、ここで得た情報と実際に戦闘に携わった経験をもとに「此一戦」という本を発表。これが桜井忠温の「肉弾」と並ぶベストセラーとなり、一躍、戦記文学作家、軍事評論家として知られるようになった。
「此一戦」には、戦後育ちの我々が見たこともない難しい熟語が次々と出てくる。ただ、きちんと意味を理解できなくても、漢文調でリズム感が良いので、漢字の字面を追っていけば、何となく内容は分かるす。
中身は、データをきっちり押さえながら、客観的かつ日露に公平な書きっぷり。
水野の著作は、現時点(2013年8月)では、この本だけが書店で購入できる。ただし、店頭には置かれていないと思うので、amazonや紀伊国屋web-shopでなら、購入可能である。
他の著作については、国会図書館でpdf化されているので、そこからダウンロードすれば読むことができる。
アメリカは、日露戦争の講和では調停役として振る舞ったが、米西戦争(1898)でフィリピンやグァムを手に入れたうえ、さらにハワイをも占領しており、日露戦争終結直後から、ロシアの後を襲ってアジアに進出することを企てていた。
日露戦争をきっかけに欧米では黄禍論が高まり、これに便乗する形で、アメリカは排日移民法のような日本をターゲットとした締め付けを強めて いく。その結果、日米双方で、日米戦争が将来不可欠とする世論が高まり、日米戦争を想定した未来戦記がたくさん出版され、よく売れるようになっていく。こうして、日米双方の間で、開戦への世論が形成されていく。
水野も、自ら日米戦争の未来戦記「次の一戦」(1914)を書き、対米戦に備えた軍備拡張を声高に主張していた が、第一次世界大戦(1914~1918)のフランスとドイツを自費で視察し、飛行機、戦車、毒ガスといった近代兵器の殺傷力・破壊力のすさまじさと、総力戦が勝敗にかかわらずもたらす国土の荒廃を実見して、これからの戦争には勝者がいないと確信。
以降、一転して非戦・反戦を強く唱え始めた。
彼は、昭和5年(1930)に「海と空」を著して、軍人らしい冷静な分析で、もし日米が戦ったなら、補給路を断たれて必ず日本が負けること、飛行機の発達で空の戦いが主力になり東京が空襲で焼け野原になることを予言する。
しかし、日本では、昭和5年のロンドン軍縮会議への反発から、統帥権干犯問題が持ち出されるなど、次第に軍部の独走を許す情勢が生まれており、冷静な議論より、根拠がなくても威勢の良いだけの声が世の中を占めるようになっていた。
やがて、水野のような平和論者は、軍部から危険分子と見なされて、発表の場すら奪われてしまうことになる。
実際の戦争は、ほぼ水野の予言したとおり、補給路を断たれて日本は惨敗、東京も大空襲を受けて焼け野原になった。
しかし、水野は、発表の場すら奪われたまま、終戦直後の昭和20年10月に療養に来ていた大島(現在は今治市)で失意のうちに病没。
秋山兄弟は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で一躍、全国的に有名になった。
水野は、猪瀬直樹が、「黒船の世紀」---ガイアツと日米未来戦記---で詳しく採り上げて
いる。
この本は優れたノンフィクションで、猪瀬直樹が立派な作家だったことを思い出させる。
でも、売れ行きは、「坂の上の雲」に遠く及ばない。
したがって、全国的に水野の知名度はそれほど高くない。
水野広徳は、松山人の間でもそれほど知られているわけではない。
ただ、南海放送が、これまでも何回か特集番組をつくっている。2013年1月にも、東京都知事の猪瀬直樹を招いて松山で講演を行った。その模様は、3月に特集番組として放映された。
猪 瀬直樹は、都知事になって間もない極めて多忙の中をやってきた。副知事の時に約束してしまった講演だからと言っていたが、彼は副知事を終えたら、元の作家 に戻って著作や講演をするつもりだったのだろう。そう考えると、この時期に松山での講演を引き受けた理由が納得できる。
水野の歌碑が、松山の子規堂がある正宗寺に立っている。場所は、坊っちゃん列車のすぐ横にあるので、多くの人が見ているはず。
しかし、水野広徳という人物がいたことすら知らないので、だれも足を止めることはない。
刻まれている歌は、
「世にこびず人におもねらず、我はわが正しと思ふ道を進まむ」
不遇の環境にあっても、屈することなく非戦・反戦を貫いた、水野の心意気を感じさせる。なお、書は松山中学後輩の安倍能成による。
お墓は、松山市の中の川通りに面した近代的なつくりの蓮福寺にある。
水野個人ではなく、水野家のお墓で、水野広徳自身が建てている。
背後におおきな「平和護念の碑」が建てられているほか、南海放送の記念モニュメントも敷地内にある。
同郷の海軍軍人として、秋山真之との交流はあまりないと思われる。
「此一戦」を書いたときには、作戦参謀だった真之には手紙で尋ねている。
また、日露戦争時の旅順閉塞作戦を書いた「戦影」を出版する際には、真之が序文を寄せているらしく、それが残っている。しかし、実際の本には採用されていない。
アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が感銘を受け、米軍将兵に配付を命じたというのが、東郷平八郎が読んだ「連合艦隊解散之辞」である。真之が起草したと言われている。この中では、平時の備えを強調しており、反戦・非戦に転じた水野とは、相容れないところがあっただろう。
ただ、秋山兄弟が亡くなったあと、それぞれの有志の会で『秋山真之』(昭和8年 秋山真之会)・『秋山好古』(昭和11年 秋山好古大将伝記刊行会)の伝記を制作しているが、水野はその監修には関わっているようだ。
軍人ではないが、同郷の著名人として加藤拓川(1859~1923)がいる。長らく外交官を務め、晩年の松山市長時代に議会で反戦演説を行った。お互い同郷のよしみで知っているはずだし、思想的にも彼とは一致する部分があると思うが、二人が深く接触した気配はない。
ただ、水野が墓を蓮福寺につくったのは、もしかすると拓川に倣ったのかも知れない。