小説「坊っちゃん」に「
ここに出てくる「汽車」は、
漱石の松山中学赴任が明治28年4月。道後鉄道が開通したのが、
このときの路線は、
大街道の駅から勝山町に出て、
この道路にしたがっ て北上し、気象台の西を通って、南町の矢野産婦人科の交差点に。
そこから広い通りを北に横断すると、
途中、住宅が廃線跡をふさいでいますが、
勝山町からここまで、歩いて約30分。
もう少し距離は長いですが、明治の人は健脚ですから、「
いるように、30分で行かれたのでしょう。
●松山電軌鉄道の廃線跡
松山東署の向かい側、労研饅頭とそば吉の間に、
一方の入り口から反対方向に目をこらすと、
道後鉄道は、明治33年に伊予鉄道が買収しました。
その後、明治44年に松山電気軌道が、
伊予鉄では対抗上、道後線を汽車の坊っちゃん列車(
松山電鉄は、最初から軌間1435ミリの電車を走らせました。
当然、運賃の値引き、
松山中学が二番町(現NTT付近)から、
もしかすると、生徒や先生たちは、