四国八十八カ所五十一番札所の石手寺には、すこし変わった戒壇めぐりがある。
本堂の左手に入り口。少し薄明かりがする右手に行くと、途中、何カ所にもろうそくの灯で照らされた仏様が置かれていて、やがて大師堂の裏に出る。
入
り口の左側、真っ暗で何もないように見えるが、こちらにも入り口が開いている。こちらの入り口をたどると、ほぼ真っ暗な道が、ただ淡々と続いている。かず
かに明かりを感じるが、かすかにセンターラインにあたるところに何かが立っていて、道を左右に分けているのが分かる。かなり長い距離を歩いたと感じる頃
に、前方に薄明かりが見えてくる。やっと出口である。この出口は、石手寺の裏を通る道に面している。
この出口を出て左側に行くと、道後村めぐり十六番「風土記の丘」の案内板とスタンプが置かれている。説明には、今も自然のままの素朴な小道が続き」とあるが、今の実態は、新しい道ができていて、本来小道を守るべき竹藪も、道の両側に面影を残すのみである。
伊予国風土記自体は残っていない。釈日本旗日本紀という古い書物に、その一部分が逸文とし残されているだけ。伊予国風土記の中には、大山祇神社や天山のことが出てくるが、一番大きくまとまって書かれているのは、「湯の郡 伊社迩波(いさには)の岡」に関することである。
この中では、オオナムチノミコトが死にかけているところを、スクナヒコナノミコトが別府から道後に温泉を引いてきて生き返らせたという話が載っているが、一番長い話は、天皇の道後への御幸が5回あり、聖徳太子も、僧の恵慈と葛城の臣と一緒に来たことが記されている。
その時に、道後温泉の霊妙なる薬効に感心して、称える碑文を作ったと伝える。その漢文は、150文字で構成され、駢儷体という非常に高度で技巧的な文法で書かれており、文章中には故事なども散りばめられているので、かなり難解な文章らしい。
その文章を全部、石碑に刻んだものが、道後温泉の「椿の湯」の入り口近くに立てられている。
本来の碑文は、全く残されていない。もともと伊社迩波(いさには)の岡の側に立てられていたらしい。というか、風土記では、碑文を見るために、人々が「誘い(いざない)」あって押し寄せてきたので、伊社迩波(いさには)の岡と呼ばれるようになったと記している。
では、この伊社迩波の岡はどこかというと、今の伊佐爾波神社ではなくて、道後公園の小山がもともとの伊社迩波の岡らしい。
後世になって、河野氏がそこに湯築城を築くことにしたとき、、そこにあった神社を今の位置に遷したようだ。
本物の碑文は、したがって現在の道後公園の山のふもとに建てられていたと思われるが、天武天皇の13年に、白鳳地震とか天武地震とも言われる大地震があって、その時に倒壊したか、あるいは土砂崩れで埋もれてしまったと言われる。
このときの地震は、東海、東南海、南海の3つの地震が連動した、東北大震災にも匹敵するような超巨大地震だったらしい。この時には道後温泉も一時的に温泉が止まってしまったが、おそらく甚大な被害が広がっている中で、碑文の掘り出すまでの余裕がなかったのかも知れない。
もちろん碑文の大きさや石の材質は分からない。ただ、推古朝の実務を担って実質的な天皇に匹敵すると言われた聖徳太子ですから、それなりの良い材質で相当の大きさのものを作ったはず。
ど
ういう書体かも分からないが、聖徳太子の時代というと、中国では隋の時代。楷書が完成して使われ始めた時期だが、日本に新しい書体が伝わっていたかどう
か。可能性としては当時の公文書に広く使われていた隷書がもっともありそう。草書や行書は、もう完成しているはずだけど、おそらく石碑には使われ
ないだろう。
古代の伊予史では、額田王の歌「熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな」の
「熟田津」がどこにあたるのかと、この聖徳太子の碑文がどこに埋まっているのかが、2つの大きな謎というか課題になっている。どこか思わぬ所から、ひょっこりと証拠か何かが出てくると、気長に楽しみながら待ちましょう。